日常の欠片


(ただいま、とか、おかえり、とか、)



 寮に入る切っ掛けなんて、簡単だった。
 両親を亡くしてから今まで、不幸、だった訳じゃない。ちゃんとご飯食べさせてもらったし、お小遣いとかも貰えてたから好きな物だって買えた。不自由はなかったし、学校生活もまた然り。けど、やっぱり私はいつだって厄介者で、今年とうとう、親戚中から少しずつお金を出し合って、私を生まれ故郷であるこの街の、寮のある学校に入れる事にしたのだ。
 仕事の忙しい人達だったし、私はその提案に一も二もなく首を縦にふった。

 それは、ついこの間の、冬の話し。



「あ、お帰りー」

「お帰りっす」



 生徒会の仕事を終えた頃、外はもうすっかり薄暗くて、気をつけてと言った小田桐君に手を振って足早に寮に戻った。ペルソナ使いであるSEESのメンバーだけが住む特別寮。男女が一緒なこの寮の皆は、全員が全員和気あいあいとしている訳じゃないけど、この間のモノレールの一件といい、それなりの物を築いてきたはずだ。最初は何処か壁を作ろうと一歩ひいていたゆかりも、最近ではよく一緒に帰ったり遊びに行ったりする。順平は順平で、ご飯を食べて帰る事だって少なくはなかった。命を預ける仲間、とは、こう云うものなんだろうか。
 古びた洋館のような建物。その重たい扉をそっと引けば、光が足元に押し寄せる。微かに肌寒い夜の空気から一変、人がいる空間だからなのか室内だからなのか、寮の中は丁度良い気温を保っていた。

「た、だいま」

 ぽんと投げ掛けられた言葉に、私は思わず声を詰まらせる。五月も半ばを過ぎた今、この寮に来てから一月以上――といっても、何週間か入院していたから微妙だけど――経過しているのにまだ馴れない。はじめて言われた時は、思わず黙ってしまったくらいだ。
 ゆかりはそんな私の様子はたいして気に留めていないみたいで、ソファにゆったりと身を沈めて紙パックから紅茶を啜っている。順平は、最近人気のあるバラエティを見ているみたいだ。どの辺りが面白いのかよく分からないけど、時折大袈裟に笑い声を上げるからゆかりにうるさいっての!と文句を言われている。ああ、この人が人気のタレントさんなんだ。
 美鶴先輩も真田先輩もまだ帰っていないのか、二年生だけの寮内にはテレビと順平の笑い声だけがやけに大きく響いた。


*


 ただいま、とか、おかえり、とか、口にしたりされたりすると、どうもくすぐったい。どうして、と聞かれても、経験が薄いからだ、とか、馴れていないからだ、とかしかいい様がないから難しい。
 お父さんとお母さんが生きていた頃は、多分毎日言っていたし、言われてもいたのだろう。けれど、その二人が居なくなってからは、あまりそう、家族とか、そう云うものとは縁がなかったからすっかりと忘れてしまった。引き取ってくれたのは仕事が大好きって人だったから尚更。
 家では得られなかったものを、まさか学生寮で、こんなに惜しみ無く貰えるなんて思ってもみなかったなぁ。


「合鍵なら、慣れてるんだけど…」


 私、鍵っ子だったし。
 小さく呟きながら自室の鍵を鞄から取り出す。それを数回手のひらで弄んでいたら、背中のドアが軋みながら開いた。


「なんだ、こんなとこに突っ立って」


 振り向けば、ロードワークにでも行っていたのか、制服じゃなくてジャージを着た真田先輩が微かに驚いた表情で立っていた。そりゃあ扉を開けてすぐ誰かがいたら、びっくりもするだろう。確かまだ完全復帰もしていないはずなのにロードワーク、だなんて、随分無茶をするなぁ。
 すいませんと謝って玄関を離れる私を擦り抜けて、ゆかりと順平の「お帰りなさい」が先輩へと向けられる。

 そう云えば、部活とか委員会とかでいつも帰りが遅い私は、言われる事にも馴れていないけど、言う事にはもっと、馴れていないはず。


「あ、あの、真田先輩」

「?なんだ」

「あ、の…お帰りなさい」

「ああ、ただいま」


 さらりと返された言葉。それがとても尊くて、くすぐったくて、私は逃げるようにラウンジを後にした。
 これからは、ゆかり達に言われるよりもはやく、ただいまって言おう。
 ひっそりと胸に抱いた決意は、きっと明日から。どうしようもない嬉しさや気恥ずかしさで胸を一杯にしながら、私は自室へと早足に急ぐのだ。手の中で部屋の鍵がしゃらりと音をたてた。

- end -

20091213

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