何故だ…。それは責めるような口調だった。こんな言葉はお門違いだ。おかしい。彼女が責められる事など何一つないと云うのに。心は何の光景も反映せずにただただ虚ろな闇を孕んでいた。
ふと、覚えのあるにおいが鼻先を掠めた気がして立ち止まる。混合ったポロニアンモールの雑踏の中、人の出入りで開いた自動ドアからそれはふわりと漂った。
なんだか気に入っちゃって。そう言ってはにかんだと思えば、気に入りませんかと不安そうに揺らした赤い瞳。あれは確か、香水だったろうか。つい衝動買いをしてしまったと彼女の指先でふるりと振られた小さな小瓶に行き着いて、ぐう、と首を絞められたように呼吸が苦しくなった。
*
あたたかい春の日だった。寮から出て行くための準備が一向に捗らない。引き払うにはあまりにも思い出が溢れて居た。そう、どれだけの時間を、この部屋で彼女と過ごしただろう。
はじめは二人して床に座って話をした。互いに緊張して、がちがちに固まっていたのがもう遠い昔のようにすら感じる。少なくともそう感じる事が出来るくらいには、彼女と二人で時間を重ねた。
赤いカーペットの上にぺたりと畏まって、けれど足が痺れたとか言ってべそをかいて。よく笑って、よく泣く少女だったと思う。そして、泣かせるよりも沢山笑わせてやりたいとか、そんなことを思ったのも、嘘ではなかった。
それから何度か繰り返して、ゆったりとベッドに腰掛ける日も少なくはなかったはずだ。唇を触れ合わせたのも、此所だった。
近くにいたのだ。あんなにも。
妹を亡くしてシンジを亡くして、今度こそ、そう決意したはずだったのに。何が、お前は俺が守る、だ。結果論から言うならば、結局それはかなわなかった。世界のために、自らを礎として、彼女は、――。
ふらりと立ち上がる。真田は部屋を出て階段を上ると、その階の一番奥を目指した。きしり、床が軋む。鍵の掛かって居ない主不在の部屋は、それでも、彼女の部屋だった。
入った瞬間、淡く香るにおい。抱き締めた時に一番強く感じたその香りに、不意に彼女がすぐ傍にいるような気がした。
「 」
堪らなくなって、名前を呼ぶ。ぽつりと落ちたその響きは、誰にも拾われる事なく閑散とした空気に飲み込まれた。
そう云えば、そう多くはないがこの部屋にも何度か訪れたなと思う。他が分からないから比べようがないけれど、男の真田から見てもシンプルで物の少ない部屋。すっきりとしたその部屋は、どこか、何かに執着することを恐れた彼女の脆い一面が滲み出て居るような気がする。
並べられた教科書。片付いて居るその部屋の机の上に見慣れた小箱を見つけて、真田は足を動かした。
忘れるはずがない。細やかな装飾を施された小箱。それはクリスマスに自分が彼女に贈ったオルゴールだ。開いてみても、その中身は空っぽだった。代わりにぽろんと、優しい旋律が途切れ途切れに響く。ネジを巻く気にはならず、真田はただ空っぽのオルゴールをぼんやりと見つめた。
毎年この箱に入りそうなアクセサリーを贈ると、約束をした。彼女との未来まで全部、確実だと云う保証が欲しかったし、何より簡単に気持ちが離れない自信があった。実際に世界は終わらず時を刻んでいる。彼女が、自分達が命懸けで守った未来だ。
それなのになんと皮肉な事なのか。世界の未来と引き換えに、彼女はもう二度とその瞳に空を映す事がなくなってしまったではないか。
何故。苛立たしくも、悲しくもあった。このまま此所にいたら、さも今まで出掛けていましたと言わんばかりにひょっこりと彼女が帰って来そうな気さえすると云うのに。それでも、このどうしようもない虚無感と苛立たしさは、守れなかった自分自身と、自分を一人置いて逝ってしまった彼女にも等しく向けられているのだ。
真田は唇を噛み締めると、オルゴールの蓋を閉じてもとの位置へ戻した。――と、違和感。何かが目の端に引っ掛かる。
ぐるりと室内を見渡して、ベッド脇の台に置いてある小箱と、添えられたカードが目に止まった。誰かへのプレゼントだろうか。
桃色の可愛らしい包装紙に、淡い黄色のカード。その色合いは春を彷彿とさせるもので、彼女がこの時期のために用意したのではないかと予想するのは簡単だった。
勝手に見てもいいのか、戸惑いに、延ばしかけた指先が宙を彷徨う。それでも抗えずに手に取ると、そのカードのメッセージに身体が震えた。
明彦先輩、だいすきです。
真直ぐすぎるメッセージ。それは彼女の生き方そのものだった。オレンジ色の細いペンで書かれた、拙い彼女からの想い。その筆跡を指先でなぞって、その時真田は漸く自らの胸の内にある感情の正体に気付いた。
胸が苦しくて、真田はただ一人、呆然と立ちすくむ。それは怒りではなく、結局、大きすぎる彼女への愛情だった。
- end -
20091213
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