痛んだ日(悼んだ日)


 多分、信じていたし、信じていなかった。
 五分五分、フィフティーフィフティー、二分の一。
 それでも、と今思う。ただ、信じていたかっただけだって――。



*


 ハッと、目が覚めた。重たい頭を起こして、ぼんやりとした視界に一瞬ぞわりと鳥肌が立つ。じわじわと追い詰めるような蝉の鳴き声。事務的なアナウンサーの声がテレビから流れていた。

 嫌な夢を見ていた気がする。遠い、昔の夢。
 誰もいないラウンジの空気は、蒸し暑い。順平が、このクーラー暑さに負け過ぎだぜ、とぼやいていたのを思い出す。額に浮かんだ汗を手の甲で乱暴に拭って立ち上がれば、柔らかな絨毯の感覚が足裏に伝わった。ふわふわと浮き足立っていたような気がしていたから、それだけで少し安心する。


 信じていたし、信じていなかった。


 冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターが火照った体を冷まして行く。
 時計を見れば夕方の四時。溜息が床に落ちる。ガラスのコップの無機質さを感じながら、何故か、どうしようもない虚無感に襲われた。



*



 私は十年を経た今も、両親が死んだ、という事実を、あまり実感出来ていない。

 最後の記憶は、ムーンライトブリッジに、散歩に行った夜。あの橋から見える街のキラキラが、宝石みたいで好きだった。だから私はよく、仕事で疲れた父さんも、眠たいと笑う母さんも引っ張って、散歩をするのが大好きだった。眺める景色も、真っ黒い海だって、全部が新鮮で、あの時の私に怖いものなんてあっただろうか。悪戯をした時に、叱られるのは怖かった、なぁ。それくらいだろうか。
 だからその日も、手を繋いで、歩いて散歩をした。星の綺麗な、静かな夜だった気がする。一際強い光を放つ星を見つけて、私は繋いでいた両親の手を解いて、ねえほら、あれを見て、って――。


 振り向いた瞬間、私の記憶は此所でぶっつりと途絶えている。

 目が覚めた時には、あの夜から一月が経とうとしていた。知らない病室で、知らない天井をぼんやりと見つめていたあの日。私が意識を失っている間に、両親は、両手で抱えられる程の、小さな小さな箱になっていた。


「父さん、母さん……」


 ぽつり、呟いてみる。返事が返ってくるはずもないのに。馬鹿だなぁ、と、思わず苦笑が漏れる。
 一人で居ると、思い出してしまうのだ。嫌でも。もしもこうして待っていたら、二人とも、何食わぬ顔で「ただいま」と、帰って来るんじゃないかって。

 引き取られた家でも、何回そう思って、一人、待っていただろう。おじさんもおばさんも仕事が忙しくて、帰る日は少なかったし、深夜に帰る事のが多かった。だから一人、夕焼けを途方に暮れながらただ室内から見上げて、そうしてどれだけの間、玄関を見つめて過ごしただろう。

 死んでしまったとみんなは言うけれど、もしかしたら。

 何時になっても捨てられないものがあった。別に死ぬって意味を理解出来なかった訳じゃない。それでももしかしたらって、信じて、いたかっただけ。
 少し我儘を言って散歩をせがんだからだろうか。あの夜を境に、街のキラキラも、つないだての温もりも、家族も、みんななくしてしまった。空っぽになってしまった。たったそれだけの事で、あの優しい両親が死んだなんて、どうして信じられるのか。


「………」


 此所は寮で、三人で暮らした家じゃないし、二人はもういない。分かってる。頭の中ではちゃんと分かっているけれど、葬儀や、最期の挨拶さえ出来なかった私には、それを心から理解するなんてどうしたって難しくて。ただ、私の髪を撫でた手が、私の名前を呼んだ声が遠ざかっていくのが、堪らなくさみしいだけ。



 ギギギィ



 軋みを上げながら、扉の開く音が、静かなラウンジに大きく響いた。感傷に浸っていた私の肩は大袈裟に跳ねて、指先からつるり、と、ガラスのコップが滑り落ちる。かしゃんとひどく頼りない音を立てて飛散したガラスを見て、慌ててしゃがみこんだ。


「ただいまっ、と、ッチ何やってんだよー」


 あーあと言いながら、ひょいと順平が顔を出した。私は、お帰りなさい、と、一番言いたい相手には永遠に届かない言葉を吐き出す。掃除機取って来てやると言った順平に感謝しつつ、取り敢えず大きな破片だけでもと触れた指先が切れた。あーと情けない声が漏れる。じんと広がる痺れにも似た痛み。指から滴り落ちた血が足元を汚した。


「ほいほい掃除機っと…うわ、お前何やってんのよ!指、血ぃ出てんじゃん!!」


 掃除機を持って来てくれた順平が大袈裟に声を上げて、私の手を掴んだ。あったかくて、少しだけ汗ばんでる。記憶に微かに残る両親とは、似ても似つかないそれなのに、それはじんわりと私の手に染み渡った。人の体温に触れる機会なんてそうそうないから、何だかとても、胸が苦しくなる。


「ほら、あーもう!オレっちが片付けとくから早く絆創膏!」

「う、ん。ごめん」

「分かってねーなぁ。そう言う時は?」

「…ありがと」

「おう。で、片付け終わったらなんか食いに行こうぜ!久々に奢ってやるからさ」


 うんと頷いて、私はカウンターの裏にある救急箱を手に取った。順平に気を遣わせていることに気付けない程洞察力がないとは思ってはいない。オレ達マブダチだしなと笑う順平があったかくて、ありがたくって、気付かないふりをさせてしまって申し訳なくて、私は声が震えないようにもう一度、ありがとうと呟いた。
 少しだけ泣いたのは、指が痛かったから、って事にした。

- end -

20091227

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