もう何ひとつ絡まない


 カチ カチリ
 時計の秒針が澱みなく進む。そして、短針と長身が12で重なった時、それでも世界は影時間に包まれる事なかった。

 カチリ、カチリとまるで悴んだような時を刻む音。これが正しい世界の在り方だとは知っている。影時間もタルタロスも消えたのだ。そして未来を掴み取った。笑える時間を、確かに掴み取ったのだ。

 冷え込むキッチンで一人、クッキーの生地を捏ね続ける。明日はバレンタインデーだ。
 友達にあげる、所謂友チョコのブラウニーは既に今日配ってきた。今作っているのは紛れもなく本命の、恋人に贈るためのそれだった。
 バレンタインデーが日曜日の今年は、土曜日のお菓子のやり取りが主なものになる。真田先輩はきっとすごく沢山、それこそ下駄箱を開けたら山のようにチョコレートが出て来るんだろうと思ったら予想通りで噴き出しそうになったものだ。ドサドサと落ちるそれを呆然と見る先輩に、堪らずが紙袋を差し出したくらい。
 けれど、それとは対照的に直接渡しに来る子は殆どいなかった。その原因が真田ファンクラブの子達が互いの足を引っ張りあっていたからだと言うのがまたなんとも言えない。そのファンクラブを欺くために下駄箱やら机の中やらにこれでもかとお菓子が入っていた訳だけれど、上履きと一緒に入れられた食べ物を食う気持ちを入れた本人達は分かってるのかと、先輩本人が嫌そうに渋面していたのだから救いようがなかった。

 彼の好きなスイートポテトはもうすぐ焼き上がるだろうから、早く型を抜く準備をしなくては、とは生地を袋に入れて、棒で伸ばしていく。
 手慣れたものだ。料理部で、風花と死闘とも言えるお菓子作りをしたのだから当たり前かもしれない。
 思い出せば笑みが零れた。寮の皆で作ったお菓子を囲んでお茶なんかもしたなぁと、ずるずると引き摺り出される記憶はどれもこれも愛しい。

 順平が誰よりもガッついて、それにゆかりが文句を言う。便乗して畳み掛ける天田にアイギスを、風花と美鶴が微笑ましそうに見守る。自分のはないのかと尻尾を振るコロマルが足にじゃれついて、それから、

 ぽたり、涙が一粒零れ落ちた。
 忘れてしまった。忘れてしまったんだ、皆。

 甘い物は苦手なくせに、順平の手から大人気なく菓子を奪った真田。あの拗ねたような表情も、なくしてしまった。

 ぽたり、ぽたり。
 塩辛いクッキーなど誰も食べたくはないだろう。慌てて目元を拭うけれど、涙は止まってはくれない。は諦めて、そのままずるずると崩れ落ちた。

 何故自分だけ、影時間の記憶が消えていないのだろう。いっその事忘れてしまえていたのなら良かったのに、こんなの本当に救えない。置いていかれてしまったような不安が押し寄せる。

 記憶がなくなっても、築いた絆は消えなかった。と、皆の絆、は。

 どうして美鶴先輩とゆかりは、あんなに余所余所しいのだろう。どうして順平は、真田サンではなく真田先輩と言うの?コロマルは神社へ、何故戻ってしまったのだろうか。天田君も初等科の寮へ戻ったし、アイギスは姿を見たことがない。どうして、美鶴先輩と真田先輩は互いを名前で呼び合わないのだろう。

 ――どうして真田先輩は、私とまだ付き合ってるんだろう。

 だっておかしい。がリーダーだったから、彼はリーダーとしての負担を心配して放課後の予定を教えてくれたのだ。ゆかりでも風花でもなく、に時間を割いてくれようとした。
 それは、真田自身がをSEESのリーダーに推したからと言う責任感からのものだったような気がする。そうでなくては、朴念仁な彼がそんな風に後輩の女子に優しくするはずがないのに。
 その切っ掛けを忘れてしまっても、一緒に戦ってきた日々を忘れても、彼はを好きだと言うのだ。それは、記憶をなくしても繋がってられる程に想い合っていたと喜ぶべき事なのかもしれない。
 けど、少なくとも彼のせいで前よりずっと欲張りになった今のには、酷な話でしかなかった。

 オーブンから漂う甘い香り。焦げてしまっては話にならない。のろのろと体を起こして、はただお菓子作りに没頭することを決めた。
 ぐいと拭った目元がちりちりと痛んだ。



*



 日曜日、戸惑ったように差し出された彼女からのバレンタインの贈り物に、真田は口許を綻ばせた。そして、一緒に食べないかとを部屋へ誘う。
いいんですかと首を傾げたに当たり前だろうと力強く頷けば、何処か傷付いたような赤い瞳が真田を見据えた。

 なんだ――?

 そこで、漸く気付く彼女のおかしな様子。自分の無頓着さに心の中で舌を打った。


「何かあったのか?」

「!?」


 手を伸ばして、頬を包み込めばビクリと強張る肢体。それに構わず、真田は指先で目元を柔らかくなぞる。慌てて冷やしたのか殆ど目立ちはしないが、そこは確かに控え目に腫れていた。


 泣いていたのだろうか


 そこまで思い至れば簡単だ。腕をひいて、彼女を自室へと連れて行く。
 ドアが閉まる音とほぼ同時に抱きすくめると、の体はますます強張りぎゅうと縮こまった。

 俺には言えない事なのか?そう耳元で囁けばすぐさま返ってくる否定の言葉。ただ昔を思い出しただけです、と、諦めとも取れる虚無的な声音に、真田は戸惑うしかなかった。
 昔の事、とは即ち、彼女の両親の事だろうか。事故で亡くしたという、の家族。その後は、親戚を盥回しに点々としてきた事は知っている。けれど、辛い思い出だろう。いくら恋人だからと言って不用意に触れてはならない事くらい弁えている。
 踏み入ってはならない場所に踏み込んだような感覚を覚えて、すまない、そう謝罪するれば、違うんです、と、そう胸に顔を押し付けたままで紡がれた。くぐもったその言葉の真意を、真田が推し量って理解する事は不可能だ。


 両親のことじゃなくて、先輩、私は――


 泣きたいような衝動をひたすらに殺しながら、は真田にしがみつく。先輩、思い出して。それが無理なら、いっそ私の記憶も奪ってください。どうか、どうかお願いします。
 真実を告げる事が出来ない歯痒さが辛く、硝子越しに触れ合っているような錯覚には絶望を覚える。
 薄い膜のようなものに隔てられてしまったのだ。こんなに近くにいるのに。こんなに傍にいるのに。

 彼の前向きな姿勢が好きだと思う反面、記憶をなくして尚も凛としている彼の背中を見るのが辛いのだ。


「先輩…、あきひこせんぱ…っ」



「、で…置いて、かないでください」


 一人にしないで、置いて行かないでと繰り返すを、ただただひたすらに抱き締める。傍に居ると言っただろ、大丈夫だ。俺はお前を一人になんてしない。そんな言葉を聞きながら、はただ首を横に振る。
 違うんです。違うんです真田先輩。どうか、どうか――。

 交わらない平行線。

 美味いな、ありがとう。手作りのお菓子を食べて嬉しそうに笑うその仕草も声音も、触れる温度も何も変わらないのに。大好きなのにどうしてこんなに悲しいんだろう。
 泣き腫らした目を細めては力なく微笑む。涙が染み込んだはずのクッキーはただ甘かった。

- end -

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 卒業式の時のアイギスへの「思い出してくれたんだ」って言葉イコール、ハム子には記憶がずっとあったと解釈したらこんなバレンタインデーになりました。想いが何処までも噛み合わないみたいな。
幸せなバレンタインデーは…余所の素敵サイト様で補うと言う事で……!!ね!
こんなハッピーじゃないバレンタインデーとかねーよ。そのうち遠回りのとこに収納されるかも。
title by たとえば僕が