昨晩の悪天候から一転して、その日はあたたかく、穏やかな天気だった。マフラーも手袋もいらない。春を先取りしたような、優しい空だった。
だから、私は信じる事が出来なかったんだ。全部を思い出して駆け上がった階段の先、彼は眠るようにそっと時を刻む事をやめていた。穏やかな表情。どこからか運ばれて来た淡い桃色の花弁が、ふわり、彼の深い髪の上に舞い落ちていた。
「海の底みたいだね」
私の言葉に、湊くんはそう?と目をしばたかせる。青を基調としたシンプルな部屋。恥ずかしくて、緊張に強張った声で、君の部屋に行きたいな、そう言った私を彼は自室へ案内してくれた。まだ、世界が破滅に向かっていた頃の話だ。
寒い日だった。最初はただ普通に話をして、片付いてるね、とか、物が少ないね、とかそんな言葉を交えて…ベッドになだれ込んだのは、それから暫くしてから。肌と肌が触れ合った薄暗い室内でまどろみながら、私は確かにああ言ったんだ。窓から差し込んでくる青白い月明りがゆらゆらと、影を悪戯に踊らせる光景を見て、そう思ったから。
その言葉に、身を寄せる私の髪を柔らかく梳いて、彼はまじまじと室内を見渡す。海の底から、海面を見上げているような錯覚。彼の艶やかな黒髪が濃い藍色のように見えた。沈んでしまいそうだと、不意に怖くなった。
「有里くん…?」
何故、いきなりそんな事を思い出したんだろう。私は、微笑みが添えられた彼の表情を覗き込む。まだ体温の残る身体。アイギスの膝に頭を預けたままぴくりとも動かない恋人を目の前に、私の頭の中は静かに混乱していた。どうして。順平の怒鳴り声が聞こえる。彼はそれを咎める事なく、ただ激しく肩を揺さぶられるがままにしていた。順平を窘める先輩の声が耳を素通りしていくようだ。目の前の光景から次第に色が消えていく。
どれだけ呼び掛けても、開かれる事のない瞼。閉じ込められた瞳の色を知っている。
嘘よ、信じない。私は順平を制して彼を抱き締めた。彼の髪から、花弁がひらり、足元に落ちるのが視界の端っこで見えた。
*
訪れた部屋は、やっぱり物が少ないシンプルな部屋だった。青を基調としたその部屋は、それでも彼が確かに生活していたにおいを思わせる。
中途半端に開かれたカーテン。日差しに、埃がくるくると舞っている様子が見て取れる。塵や埃も光に当たるとキラキラと輝く事を、私はその時はじめて知った。
「嘘つき」
彼は嘘つきだ。お母さんに一緒に会いに行ってくれると約束した。高原とかに出掛けようって話もしたし、デスティニーランドも春休みになったら行こうねって。その約束ごと、彼は攫っていってしまったのだ。残されたのは私と、記念日や、予定されてたデートの日に印が書かれた手帳。そして、何だかんだと彼が私にくれたプレゼントだ。
リーダーとしてじゃなくて、有里湊としての彼が好きだった。甘えたくて、優しくしてほしくて、寄り掛かりたくて、そんな押し殺した私の醜い弱さや我が儘を、受け入れてくれた人。私を見つけてくれた人。
ゆかり、と呼ぶ声が好きだった。髪を撫でる、繊細な指先が好きだった。私の未来には必ず彼がいるのだと信じて疑わなかった。だってそうでしょ?沢山苦しんだなら、絶対、幸せになれるって――。
「うそ、つきぃ…っ」
喉がひくり、引きつった。思わず倒れ込んだベッド。埃が舞い上がったけれど、気にせずにその柔らかな布団に顔を埋める。隣りにいて欲しかった。ずっと私を、見ていてほしかった。その目で見て触れて確かめていてほしかった。
彼は終わりの形をずっと知っていたのだろうか。だとしたら、ひどい。ひどいよ、馬鹿…。連れてってとは言えなかった。ただ涙で視界が滲む。カーテン越しに入り込んだ光が青白くこの室内を照らす。ゆらゆらと揺れる影。見渡したこの部屋は、けれどもう、海の底ではないのだ。
嘘つき(大好き)
だって、君がいない
- end -
20100305
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