春の麗らかな天気。淡い桃色の花弁が、ひらひらと舞っていた。桜も満開に近付き、世の中はどこかそわそわと浮き足立っている。
巖戸台分寮――特別課外活動部の探索リーダーであった少年が使っていた部屋の中は空っぽであった。ノートパソコンやテレビ、段ボール数箱に収まってしまう程の量であった少年の私物は、彼の親戚によって全て引き払われてしまった。当然の事である。本日三月三十日、明日には、この巖戸台分寮は閉鎖、取り壊しが決行されるのだ。卒業生である美鶴、真田の二名を除き、残されたメンバーは実家に戻る者もいれば、一般寮へ移り住む者もいる。みんな、バラバラになってしまうんですね、と、この寮の中では最年少であった少年の呟きに、誰も何も言えなかった。会おうと思えばいつだって会えるさ、と、その言葉を飲み込んでいた。もう二度と、会えない人々も、いる。
リーダーであった彼、有里湊はもういない。どこを探しても、だ。岳羽ゆかりは、その事実にただただ嘆息していた。孤高であった少年に寄り添うことをゆるされたこの少女は、自らの隣の席が空席になってしまった事を、うまく飲み込めないままでいる。
彼の犠牲によって存続を続けるこの世界で、彼に恥じぬようにと、がむしゃらに前進しようとあがいている。戦いに身を置いた一年間、疎かになった勉学を取り戻すべく自発的に講習を受け、部活動に励む毎日。ただ、戦の最中、弓を握り続け、皮の厚くなってしまった手のひらが、たまらなく悲しかった。
「有里くん…」
荷造りを終えた自室で、ぽつり、呟いてみる。返答はない。あの不器用過ぎた少年が、少女を呼ぶことはない。分かりきったことであるというのに、それは少女の心を打ちつける。乗り越えなくてはと走る少女。彼女の足を引き摺るのは、けれど紛れもなく、少女の愛したあの少年に他ならないのだ。
太陽の光に、世界が白む。世界は白々しく、薄い膜に閉ざされたかのように発光している。彼の救った世界は、これからもずっとずっと、彼を置き去りにして続いていく。その第一歩として、彼の帰る場所であったこの寮もまた、永遠に失われるのである。あの気だるそうな、気配。面影を、残滓を、必死にかき集めようとする少女達を嘲笑うかのように。変化とはいつだって痛みを伴うものであるが、それは今の少女には些か急すぎた。
これから、どうしたら…
そうしてゆかりは、その時漸く自分が途方に暮れているのだと気付いた。
もう、どうしたらいいのか、分からない。どこへ向かえばいいのか、その方角すら。
世界を救わなくては、と、父親の無念を晴らさなくては、と、必死になっていたあの頃。その、絶対に果たさなくてはならなかった目標を達成し、そして、愛する者を同時に失った今、ゆかりは世界を見失ってしまったのだ。
彼と出会う前も、ずっとずっと岳羽ゆかりとして生きてきたと云うのに。むしろ、彼と過ごしたのは、一年にも満たない少ない時間だと云うのに。それにも関わらず、誰にも頼らずに生きていこうと肩肘を張っていたあの頃を、ゆかりはどうしても思い出せなかった。
そんなに怖がらなくても良いのだと、女の子として誰かを好きになって生きることを肯定し、与えてくれた少年。そんな少年と出会って変わった自分を、その変化を喜び慈しんでくれた少年を、忘れることも捨て去ることも、ゆかりには出来なかったのである。独りでも大丈夫という強がりを、彼はいとも簡単にほどいてしまった。そして、好きだよと、言ってくれたのだ。一緒にいようと。それがどれ程嬉しかったか、少女は今でも鮮明に思い出せる。素っ気なさを装った、表情までも。
暴力的に吹き荒れる寂しさは息を潜めても、いい知れぬ恋しさ、愛しさが、身を焦がす。苦しい、と、少女は身悶えた。世界の非常さなど、幼少の頃に嫌と言うほど思い知ったと言うのに、まだ足らないと云うのだろうか。少女の小さな世界から、大切な者がまた一つ奪われた。かけがえのないものが。ぽろぽろと零れ落ちてゆく。それを止める術を持たない少女は、もう涙も出ないかわいた瞳で、未来に向けて進まなくてはならないのだ。
少年は世界を守り、少女は世界を見失ったまま、一人立っている。紙袋からちょこんと顔を出した、ぬいぐるみ。少年が少女に手渡したフロスト人形だけが、白んだ世界で変わらずに笑っている。
- end -
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