あの子が、どうやってあの場所を手に入れたのかは、知らない。それでも確かに訪れた変化は、些細で、見落としがちで、それでいてひどく優しい色をしていた。
「甘い物の、美味い店を知らないか…」
言いにくそうに、ひどく歯切れ悪く紡ぎ出された声にぱちり、目を瞬かせる。散々迷ったようにたっぷりと間を空けて尋ねられた言葉。バツの悪そうな顔をした真田明彦君は、あ、いや…甘い物が好きな奴がいてな、と、言い訳のように付け足した。
真田君とは、何だかんだで高校一年から今までずっとクラスが同じだった。だからと云って交わした会話は、例えば英会話の時間にグループで集まって例文を読みなさいと言われた時だったり、席が近くになった時に社交辞令程度の挨拶をしたりだとかそれくらいのもの。ただでさえ、真田君と組がずっと一緒だって事で妙にやっかんでくる子がいるのに、とてもじゃないけれど仲良くしようとは思えなかった。彼は学園のアイドルなのだ。平凡で、どちらかと云えば静かに読書をするのが好きな私では到底彼には近付けない。憧れのようなものはあるけれど、恋と呼ぶにはあまりにも粗末ではないだろうか。
そんな真田明彦君が今、私をじっと見て返答を待っている。図書室で宿題をしていて、忘れ物に気付いて教室に戻ったその僅かな時間に、同じく忘れ物を取りに来たらしい真田君と遭遇するなんて、とんでもない確率で引き起こされた出来事。神様の悪戯、という単語を振り払って、私は必死に口を動かす。
「ええと、どうだろう。ポートアイランド駅からちょっと行ったとこに新しくカフェが出来たけど…あ、でも有名なのはあずきあらい、かな」
「あずきあらい?」
「うん。商店街にある…」
そこまで言うと、真田君は、ああ、と頷いた。うまく伝えられて、私はほっと息を吐く。それから、そうか、ありがとう、なんて、柔らかく微笑まれて、心臓が決壊しそうになった。
彼がこんなにも優しく微笑うようになったのは、いつからだったかなぁ。一年生の時からずっと、少なくとも部活がある日はとても生き生きとしていた真田君。そんな彼が、部活のない日も楽しみにしているように見えたのは、いつからかな。
真田君が、今年の頭に転入してきた年下の女の子と、よく一緒に居るのを見掛けるようになった。
茶色いふわふわとした髪をポニーテールにした女の子。可愛いから、男子が噂してるのをよく聞く子だ。あの桐条さんの推薦で生徒会に入ったり、他にも沢山のクラブで活動してると聞く。実際廊下にいるのを見た事があるけど、ふんわりとした雰囲気の、感じが良さそうな女の子だった。一部の真田君のファンは、同じ寮に住んでるからって調子に乗ってるとか、ウザいとか、身の程知らずだとか、色々言って居るのは知ってる。それでも私は、その事を祝福したいと思っているのだ。
どれだけ可愛い子がアプローチしても、決して顧みることがなかった真田君。騒がれれば騒がれる程、疲れたように息を吐いていた真田君。そんな彼がこうして、少なくとも私なんかに声を掛けてまで喜ばせてあげたい相手が出来たことが、なんでかな、すごく嬉しかった。(だってこんなに優しく笑うのは、その子の事を考えてるからでしょう?)
「それじゃあ、また明日ね、真田君」
「ああ、また明日――」
最後に、私の名字を呼んだ彼に驚いて、鞄を落としそうになる。そのまま振り向かずに、若干薄暗くなりはじめた廊下を突っ切れば、泣きたいような衝動が込み上げた。
なんで名前、知ってるの
確かに三年間同じ組なんだから、そんなの不思議じゃないかもしれない。けれど、信じられなくて、胸が痛くて、目頭がかっと熱くなった。
ずるいな、真田君は。
どうか、その子とずっとわらっていて欲しいな。あんな風に優しく、わらっていて欲しい。
そう願いながら、私は残酷な彼の、低い声で呼ばれた自分の名字を思い出す。
恋と呼ぶにはあまりに粗末で、小さくて、淡かった私の気持ちは、その時永久に芽吹かない事を知った。
摘 み 採 ら れ た 春
後日、こっそりと人目を憚った真田君が、こないだはいきなり悪かったな。美味かった。そう律義にお礼を述べて来た。だから私は、精一杯わらうんだ。
どうかこれからも、彼がああしてわらっていられますように。
- end -
20100224‐521(拍手ログ)
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