ひとり


 無機質な音がする。何かが錆び付いて軋んでいるような、悲鳴のような音。ギィィィ、パタン。それが、扉が閉まる時のものだと気付くのに暫く時間を要した。ぼんやりと頭の中に浮かんだ、つい先程部屋を出ていった仲間達の背中。廊下に落ちていたであろう六人の影。思えば私達には行き場がなかった。ゆかりは固い椅子に腰掛けたまま手を伸ばす。柔らかい白い布、それを退ければ露になるしあわせそうな表情が寂寥としたこの空間には不似合いで、いっそ悪い夢のようだ。否、悪い夢だったなら、どれだけいいだろう。影時間を共にした仲間達は気を遣ってか帰っていったので、この室内にはゆかりと、有里の亡骸だけが取り残されている。白く清潔な部屋の中、眠る有里と二人きりの時間を過ごす事は、ゆかりにとって初めてではない。有里が転入してきて、暫くした満月の翌日。ペルソナの召喚を果たして倒れた有里は何日も意識が戻らず、ゆかりは放課後、部活を休んで毎日病院へ足を運んでいた。春先の出来事だ。決定的に違うのは、有里のついた眠りが、もう二度と覚めないものであるということだろう。
 そう、私達には行き場がなかった。そっと心の中で繰り返す。その言葉はゆかりの中に自然と降りてきて、すとんと納得した。特別課外活動部のメンバーは皆、行き場なくさまよっていた。互いの身の上を語り合う事は最後までなかったけれど、各々に、抱え込んだものがあること、孤独であるということにおいて、共通だったのだ。哀しみを呑み込み過ぎて、行き場をなくしてしまったことも。
 殊更沢山のものを呑み込んでいたのは、有里ではないかとゆかりは思っている。有里は穏やかな人であったけれど、穏やかと表現するには些か感情に欠落が見られた。うまく怒れないから、例え理不尽に声を荒げられようとも怒らず、うまく泣けないから、誰かを目の前で喪っても涙を流すことがない。そんな人に思えて仕方がなかった。幼い頃に両親を同時に亡くした有里は、その小さな心に抱え込むにはあまりにも莫大な哀しみを呑み込んだのだろう。そして同時に、自身の中にある幾つかの感情も呑み込み、蓋をしてしまった。今ならそう思える。有里の中に封じられていたシャドウであった彼、望月綾時があまりにも有里と掛け離れた性格をしていたのは、暗に、有里が捨ててしまった感情を、綾時が拾い上げたからではないだろうか、と。
 信じられるだろうか。やさしく触れた手は、ただ冷たくて、蝋人形のようにかたかった。この部屋の壁のように白い。有里も含めて、活動部の人間はこの一年間で沢山の哀しみを新たに呑み込むことになった。行き場を求めるように、皆一様にタルタロスを登った。けれど、全て終わった今も、ゆかりには行き場がない。最大の哀しみを与えた彼は、幸福に満たされた表情のまま居なくなってしまった。逝ってしまったから、もういない。もう会えない。有里は、行き場を見つけたのだろうか。だからこそ何もかも置き去りにして、決着をつけて、たった一人、逝ってしまったのだろうか。

 室内は薄暗かった。昨日、3月5日は、あんなにも晴れて暖かかったというのに、明け方にかけて次第に空は曇りだし、今では雨が降っている。ゆかりは自分の中で何かがひび割れていく音を聞いた気がした。言葉にして吐き出しても聞いてくれる人はもういない。綾時が居なくなり、半ば引き寄せられるようにして自分達から遠ざかってしまった有里。その彼の傍に、どうしても距離を詰めることが出来ないことが、ゆかりには悲しかった。ああそうか、伝わらないからひび割れるのか、とゆかりは思った。伝える手段がないから苦しいのだ。胸をついた叫びだしたい程の衝動も、喉元まで出掛かって、結局は霧散してゆく。
 彼はもう傷つくことはない。たとえ心ない人が有里の死を踏みにじっても、有里はもう傷つくことすら出来ない。彼がしあわせに満たされた表情を歪めることなどないのだ。逝ってしまったから。還らないから。だからどれだけゆかりが叫ぼうが、どれだけ悲しもうが、行き場なく彷徨しようが、有里はそれを知ることはない。彼にもたらされた死は、確実にゆかりの中から有里を奪っていく。

 ああ、今の私の姿を見て、きみが傷つけばいいのに。それなのにきみは、私を見ることはない。きみのせいで傷ついて泣けもしない私の姿なんて、知ることはない。ねえ振り返ってよ、待てって言ってんでしょ、ばか。

 何かひどい言葉を吐き出してしまいたかった。冷たいであろう雨がザァザァと窓を叩いている。ゆかりはちっとも泣けやしなかった。睨み付けた有里の表情がぼやけて、次第に濡れていく。ぼろぼろと頬を涙は伝っていくのだけれど、ゆかりはこれっぽっちも泣くことが出来なかった。3月にしては冷え込んだ、午後のことだった。

- end -

20100719

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