軋んだ夕暮れ


 死んでしまったら何もかもおしまいなんだよ、と、有里くんはわらった。違う、わらっているように見えたし、泣いているようにも。彼が本当は何を考えているのか、何を思ってその言葉を口にしたのかは、私には分かりません。誰もいない夕暮れの屋上で、二人。秋の終わりと、冬のはじまりの境目。こんなにも物悲しい気持ちになるのはきっと、日没が近いからでしょう。

「どうしたの山岸、そんな顔して」

「ううん、風が強くて、少し冷たいから・・・」

 その時私は一体、どんな表情をしていたのでしょうか。有里くんはさして気に留める様子もなく、ふうん、と気のない返事をしました。柵に背を預けて、ぼんやりと空を見上げる姿は、徐々に薄暗くなっていく空と同化してしまいそうに見えます。どこまでも穏やかな表情で、彼はゆっくりと死について語るから、まるでそれが当然とでも、真理であるとでもいうように語るから、私はただ、夕焼け色に染まる彼の深海のような髪が風に靡く様子を眺めていました。有里くんは、不思議。色んなお友達が沢山いて、色んな人から信頼されている。いつだって気がつけば人の輪の中に居る彼が、地味で、あまり楽しい話も出来ないような私のために時間を作ってくれているという事が、未だに夢みたいなんだもの。ああ、けれど、時折とても、彼が居心地悪そうにしていることを、私は知っている。ふらりと人の輪から抜け出して、人気のない場所でひっそりと、普段は首からぶら下げたままのイヤホンで音楽を聴いていることを。本当は、彼は独りでいる方が、楽なのかな、なんて思うけれど、そんな事聞けるはずがありません。その、たった一人でいるときの姿がもし、本来の有里くんの姿なら、なんて、さみしいんでしょう。

「あの、さっきのはどういうことですか」

「さっきの?ああ、そのままだよ・・・死んだらそこでおしまいだ。」

 歌うような口調でした。けれどどこまでも淡々とした、冷え切った口調。どうでもいい、と彼はよく口にするけれど、本当に、まるで心底、どうでもいい、とでも思っているような。自分自身ですら、他人と見なしているかのような。有里くんは私を見て、それから眉を下げて、困ったようにわらいました。ごめんね、いきなり恐がらせた?私は、そんなことないです、と首を振るので精一杯で、情けない、何か気の利いた言葉の一つも、浮んでこないのでした。冷たい風に、足先から冷えていくような心地。指先をそっと擦り合わせながら、そっと息を吐く。屋上は風が強くて、私の短い髪や、スカート、彼の長い前髪や上着の裾をはたはたと揺らすのでした。

「僕には分からないんだよ。天田も真田先輩も、荒垣先輩の信念だとか、そういうものを引き継いだ気になっている。けれど、それは荒垣先輩が、自分が死ぬ事、もっと前々から分かっていたからだろ?予め、あの人は天田に前を向くための機会を与えてた。食事を作ったり、色々な遠まわしな方法で・・・だから、あの人は最後にこれでいいって言ったんだ。やることはやったし、決着も着けて逝った。本当に、大した人だって思うよ。その後に残される僕たちのことは、あの人の決着には含まれていなかったとしても、それでもほんとさ、大したものだ・・・。開かれた集会で、色んな奴があの人のこと、いい加減な噂を立てた。けど、あの人はもう、傷付くことすらない場所に逝ってしまったからさ。これでいい、そう言って死んだあの瞬間、あの人は終わったんだから。だけど実際、自分の死期を悟っている人なんてそんなにいないだろう?居なくなる予定なんかなく、明日も、明後日もずっと一緒にいるつもりだったら。何か残してやろうって準備を前もってしていなかったら、何も残らないんだ。」

 だから、死んだらそこまでだろ。
 ぷつん、何かが千切れるような音が、聞こえたような気がしました。有里くんはやっぱりわらっていて、やっぱり泣いているように見えるのです。くつくつと低く喉で笑った彼は、かつん、足場を蹴りつけました。さみしい音、すぐに消えてしまう、後には何も残らない、ああ、残響さえ・・・。荒垣先輩のこと、そんな風に言わないで、なんて言えませんでした。

「山岸はさ、誰か身近な人で、突然死んでしまった人っていないの?」

「え・・・」

「僕はさ、両親だったよ」

 そこで私は、はっと息を呑みました。普段は、そんな話、しない。寮で一緒に生活を始めて、もう何ヶ月たったんでしょう。まだ、何ヶ月しかたっていないのでしょう。私はちっとも、有里くんのことを知らないんだということに気付いて、悔しくて、悲しくて、胸が痛みました。どうしてこんな話を彼が私に話すのか、分からない。分からないけれど、分かりたいと思いました。この彼の胸の内を受け止めてあげなくちゃって。ただ、心細そうに、自分を嘲笑うように有里くんは言葉を続けます。何かが軋んでいるような、そんな音がどこからか聞こえてくる気がしました。何が軋んでいるのか、孤独に住まう彼の心でしょうか、それとも無知を呪う私の心でしょうか、そんなことは今はどうだっていいのです。ただただ目の前にいる、ひどく不安定で希薄な彼の気配が消えてしまわないか、私は足元が不意に途切れてしまったかのような感覚に襲われました。何か決定的なものが、私が有里くんに触れるのを拒むかのように立ちはだかっているのです。
 事故だった。一瞬だったよ。乗ってた車は大破して、僕だけが生かされた。僕だけが置いていかれた。、けれど、死んだ人間はそこで終わりだろ。死んだ人間が何かを残してくれることなんて、なんにもないんだ。無念だとか、それすら、今生きているこっちが勝手に言っているだけなんだからさ・・・。だから何も残らないし、誰かから忘れられてしまったら、それこそこの世界にいたという事実すら掻き消えてしまう。人の命を奪うのは死だ、それは確かな事だよ。けれど本当の終わりは、本当の暗闇は、人間の脳から、記憶から完璧に忘れられたときにもう一度やってくる。僕の両親は、僕の中で二度死んだんだ。薄情だろう?もうどんな顔だったかなんてさっぱり覚えていないんだ。
 声は悲痛で、話している内容だってあまりにも私達のような子供が語るには重たいものなのに、力なく、それでもやっぱり有里くんはわらっていました。私は、なんて言ったらいいのかやっぱり分かりませんでした。だから、そっと近づいて、その手を握ってみます。今度は阻まれる事なく、彼の隣まで辿り着く事が出来た。有里くんの手は、私なんかよりもずっとずっと冷たくて、冷え切って、強張っていました。彼は私の手を、ゆっくりと握り返して、それから、空を仰ぎました。陽はさっきよりも傾いて、半分ほどしか見ることが出来ません。そんな強い日差しを背に受けているはずなのに、やっぱり有里くんの手は冷たいままなのでした。

「だからさ、僕は誰も好きにならないし、誰からも想われていたくない。もし僕の傍からいなくなるなら、何も残さないで欲しい。少なくとも、僕は何も残せないから・・・だから誰も、僕の特別になんかなれないし、僕だって誰かの特別になんかなれやしないんだ。だって、そんなのはあまりにも辛いだろう・・・?」

 有里くんはやっぱりわらっています。わらっているのに、やっぱり泣いているのです。辛そうに吐き出されたその言葉こそ、紛れもない彼の弱音であり本音であると、私はその時思いました。ね、だってね有里くん。

「ならどうして、そんな顔、してるんですか?」

「風が強くて、少し冷たいからだよ・・・」

 秋の終わりと、冬のはじまりの境目の、日没のことでした。

- end -

20100726

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