やさしさのように愛を


 ガソリンスタンドでのバイトを終えて、銭湯に寄って帰る頃には、もう日付を跨ごうとしていた。風が直接当たらないからマシという程度で、WestBeachの建物の中は外に負けないくらい寒い。暖房を使う費用を捻出するだけの余裕がないことが原因だった。
 とにかく腹が減った。何か適当に冷蔵庫にあるもので料理をしようとキッチンへ向かうと、流し台には、琉夏がやったんだろう、ホットケーキの生地を混ぜたボウルと割り箸がそのままになっていた。ガスが通っていないから、当然蛇口からは水しか出てこない。寒がりの琉夏には確かに水仕事は辛いだろうが、腹が立つものは腹が立つのだった。せめてもの救いは、きちんとボウルの中に水が入っていたことだ。そうでなければ生地が固まって、洗うのが余計に面倒になってしまう。
 フライパンもそのままかよ、と見れば、その中には厚みのある大きなホットケーキが一枚残されていた。琥一の分だろう。コウの分も作ってやったんだから片付けくらいしてくれたっていいだろ、と悪びれずに口にする琉夏が目に浮かんで、琥一は溜息を吐いた。睨むようにして二階を見上げる。けれど、すっかり電気が消えているのを見たら怒鳴る気力もなくなってしまい、結局はもう一度溜息を吐くだけに終わってしまった。琉夏が片付けを面倒臭がってしないことはよくある事で、こうして琥一が尻拭いしてやることは二人暮らしを始めてからもよくある出来事だった。言っても無駄だということは分かりきっている。それでも明日、文句の一つでも言ってやろう。すっかりと冷えたホットケーキを胃袋に詰め込みながらそう思う。冷蔵庫に入っていた牛乳で流し込むと、琥一はスポンジと台所洗剤を手にフライパンとボウルを洗い始めた。
 コウちゃんは、優しいね。そう言ったのはだった。そんなことを言われたのは初めてだったので、何言ってんだコイツ、と思ったことを琥一はなんとなく覚えている。優しい、なんて、俺のどこ見て言ってんだ、アイツは。殴り合いの喧嘩を毎日のように繰り返していた中学時代を知ったら、あの頃の琥一を見たら、はなんと言うだろうか。それでも尚、優しい、などと口にするだろうか。余多高の連中に絡まれた場面に何度か遭遇されているが、その度に、確かには怯えていた。
 そこまで考えて、琥一はそれ以上想像することをやめた。そんな想像は無意味でしかないし、あまり知られたくないとも思う。本当は、一緒にいること自体、あまりよくないんだろう。それでも、は歩み寄ってきた。あの幼い日と変わらずに、分け隔てなく。突き放すことが出来る程、ストイックにはなれそうにない。兄のように慕われているのだろう、そう思うと、何か苦いものがこみ上げるような、そんな気持ちになる。けれど、それ以上を求めることはどうしても憚られた。

「……っ」

 痛みが走ったのは、突然だった。見れば指から少量の出血が見られる。吹き曝しのガソリンスタンドでの真冬のバイトは中々キツイものだ。水仕事も少なくはないし、ガソリンを入れに来た客の車の窓を拭くために濡れた雑巾を持つだけで指先は冷たくなっていく。琥一の手は元来温かい部類に入るだろう。けれど、今はとても冷たい。自身の指にあかぎれの存在を認めて、思わずうへぇと顔を顰めた。このところ手が荒れていることは分かっていたけれど、とうとう出血や痛みを伴うとは。メンドクセーな、と琥一は一人ごちると、棚から絆創膏を取り出して患部に貼り付ける。それから、やたらと手を繋ぎたがるのことを思った。今週末も、一緒に出掛ける約束をしている。こちらの生活状況を気遣ってか、臨海公園や森林公園といった、金銭があまり絡まない場所に誘ってくることの多い彼女だった。昼は弁当を作ってきてくれる。夏場も云えることだが、屋内で快適に遊ぶ方が楽しいだろうに。そんな気遣いを感じて、余裕のある時は琥一から遊園地や水族館に誘うようになったのはいつからだったか。
 じわり、胸の中になにか温かいものが滲んだ。最近は出かける度に、何かと言って手を繋いでいるような気がする。寒いから、と尤もらしい言い訳も手伝って、自分からの手を取ることも増えた。こりゃ、当分の間手ェ繋ぐのは却下だな。ガサガサの手を見て、琥一は小さく笑った。手を繋いで帰ろう、という提案を断られたの、しょぼくれたような表情が目に浮かぶようだ。こんな汚ねェ手、触らせる訳にはいかねえな。洗い終わった食器を片付けて、一階を後にする。自分の手を労わることなど、知らない琥一だった。


*


 その日は、はばたき駅で待ち合わせて海へ散歩に行く約束だった。待ち合わせ場所には、時間よりも少し早く到着する。待たせるのは忍びない気もするし、ぽややんとした雰囲気があるはナンパのターゲットにされやすいのだった。何度かそういった事があったが、強引に腕を引かれておどおどしている姿を見るのは決して気分がいいものではない。自分が早く来ることでそれが防げるのなら、それ以上のことはなかった。家を出るとき琉夏に度々からかわれるのは癪だけれど。そんな事を考えている内に、が小走りでやってくる。そんなに手を振らなくても、長身の琥一ならすぐに気付くことが出来るのに。

「コウちゃん、おはよう!なんだか早いね、まだ時間前だよ?」
「まあな、ここ、たまに変なの出るからな。それよかよ、ガキみてえだからあんま手とか振るんじゃねえよ」
「はーい」

 じゃあ行こっか。きゃっきゃと楽しげに隣を歩くの手から、大きな手提げを奪い取る。二人分の弁当が入った手提げだ。ずっしりとした確かな重みを感じながら、持ってやる、と言うと、は少し照れたように笑った。ありがとう、その言葉と同時に絡んだ腕を振りほどくことはしない。人目も気になるが、悪い気がしないのだから仕方がない。バカップルだ、こりゃ。呟いて、歩調を少し緩めた。


「今日は海が綺麗だね!」


 どこまでも続いているような海岸線を臨みながら、砂浜に足跡を点々とつけて歩いていく。時折犬の散歩をしている人とすれ違う位で、人気はほとんどと言っていい程なかった。当たり前だ。今日は前日に増して気温が低い。デートスポットだなんだとネットで特集を組まれていたらしいが、こんなに寒い日に来るのは余程の物好きだけだ。
 組んでいた腕は、海についてから何となしに離れた。歩幅が違うせいで数歩後ろを歩いていたを振り返ると、海を見ているようだった。鼻は真っ赤で、海から吹いてくる冷たい風に前髪をかきあげられた姿は、いつもに増して幼く見える。琥一の視線に気が付いたは、寒いね、と笑った。見れば、指先も真っ赤に染まっている。細い指が悴んでいる様は、なんとなく痛々しく映った。

「お前な、手袋くらいしてこいよ、指、真っ赤だぞ」
「マフラーしてるし、いいかなって思ったんだけど…」

 大丈夫、大丈夫。そう笑うの手を、しょうがねえな、と琥一が掴む。掴んで、それからハッとした。今、自分の手は荒れているのだった。日々のバイトや家事に追われて、あかぎれやひびの目立つ手だ。一応、出血をした部位には絆創膏を貼っているが、見ていて気持ちがいいものでは決してない。

「あ、悪ィ」

 罰が悪そうに離れた手を、は悲しそうに見つめた。いつもそうだ。琥一が怪我をすると、はいつもこんな顔をする。出来れば、見たくない表情だ。は引っ込めた琥一の手を取ると、荒れちゃってるね、と呟いた。なんとなく居心地が悪い。大したことねえよ、ぶっきらぼうに返すと、は、うん、と頷いた。それから、何か思い出したように、あ、と声を上げる。見上げてくる視線は、何か閃いたらしく少し得意気だった。

「コウちゃん、私、ハンドクリーム持ってるよ!」
「はあ?馬鹿、イラネェよ、んなもん。お前んだろうが」
「いいの、ほら、ベンチ行こう?塗ったげるから」

 ぐいぐいと強引に腕を引かれながら、琥一は溜息を吐く。一度言い出したら、きっと聞かないだろう。女に手を引かれて砂浜を歩く自分は何だか間抜けで、小さく笑った。カッコワリィしダセェし、最悪だ。けれど、嫌じゃない。嫌じゃないから困っている。結局繋がれている手にも、それを嬉しいと思う自分も。

「バイト、大変だもんね。水仕事したら、ちゃんとケアしないとダメだよ」
「まあな、琉夏の奴がサボりやがるから家の水仕事も回ってくるしよぉ…おい、今度お前から琉夏に言っとけ。テメェで食ったもんくらい片付けろってな」
「え、なんで私?」
「お前が言った方が効果あんだよ」
「そうなの?」
「そうだ」

 言い切ってやれば、ふふ、了解、と笑った。塗装の剥げたベンチに腰を下ろすと、は自分の鞄をごそごそと漁る。中からポーチを引っ張り出して、その中から取り出されたクリームを、そっと塗りこんでいく。なんだか妙にくすぐったい気持ちになって、琥一は閉口した。何を話せばいいのか、すぐに分からなくなる。話をするのはどうにも苦手だ。同い年の、相手が女ともなれば特に。幼馴染といっても、ずっと一緒に過ごしてきたわけじゃないから余計に、よく分からないのかもしれなかった。
 今のように、二人で出掛けて沈黙が流れることも珍しくないのに、は退屈する素振りも見せずに帰りには楽しかったと笑う。もう何度となく休日を共に過ごしているけれど、それだけは変わらなかった。一緒にいると楽しいね、と言う。気の利いた言葉を掛けてやれないし、好きな場所へ存分に付き合ってもやれないのに、だ。
 この小さな手が、いつも必死に自分を追いかけてくれていることを、琥一だってよく分かっていた。そして、じわりと滲むこの感情の名前も。
 の、桜貝のように淡く色づいた冷たい指先が、けれどいつもと寸分違わぬ優しさで、大きなこの手を包んでいる。そのハンドクリームからは、なんだかは知らないが、花のような匂いがした。とてもじゃないが、自分には似合わない香だ。傷が痛まないように丁寧にハンドクリームを塗りながら、がぽつりとこぼした。

「コウちゃんはさ」
「あ?」
「コウちゃんは、やっぱり優しいね」

 じわり、滲んだ。
 言葉と共に、触れ合っていた手が、離れていく。はい、終わったよ。そう言って笑ったを、たまらずぎゅっと抱きしめた。引き寄せるためにつかまえた小さな手は、先ほどよりもあたたかかったかもしれなかった。

- end -

20110327

三年目、冬。
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