誰も知らない


 校舎裏というのは、総じて人気のないものだ。誰の声も聞こえない。届かない、と云う方が正しいかもしれない。
 夏の強い日差しを受けることのないここは、けれどそのせいか、どことなく湿気っている気がする。木々の、本来はやわらかな茶であろうかたい樹皮をびっしりと覆う苔の鮮やかさをぼんやりと認めながら、濡れていないことを確かめると、は草の上にそっと座り込んだ。購買で買ったサイダーのペットボトルが汗をかいて、手のひらを少しずつ濡らしていく。昼休みだが、食欲はない。折角早起きして作った弁当を開ける気にもならず、手提げから取り出すこともしなかった。四限の授業が終わると同時に教室を抜け出して、ここに至る。ただ、なんだか無性に一人になりたかった。
 このはばたき市に帰ってきて、の毎日はとても充実していた。勉強、バイト、部活、人付き合い。休日は友達と遊びにも行くし、買い物だってする。まだ大丈夫、まだ、きっと出来る。そう思って詰め込んだスケジュールは、けれど、どうやら予想よりもずっとハードだったらしい。は決してひ弱ではないし、体力だってそこそこある部類に入るだろう。そう、その証拠に今、多少無理はしているけれど、何もかもうまくいっている。うまくいっているのに、どうしてか何もかもかなぐり捨ててしまいたくなる瞬間が、あった。それがまさに、今、なのだ。
 疲れているのかも、しれなかった。ただ、毎日とても充実しているからこそ、余計に。ああそういえばこの数か月、まともに休息を取っていない。そのことに気付いて、は小さく溜息を吐いた。蝉の声が、頭の中で反響している。世界がぐらぐらと揺れているような気がした。
 思い返せば昔から、単独行動は嫌いではなかったと思う。人と関わることは今でこそ得意だけれど、幼いころのは、友達も少ない引っ込み思案な少女であったからだ。どちらかと云えば、誰か、よりも、自身の好奇心を優先させてしまう節が未だに残っている。だからこそ一人で近所を探検して迷子になり、教会で遊ぶ彼らに出会えたのだけれど。
 そんなの本質をそれとなく指摘したのは、ああ、確かカレンだっただろうか。

――バンビっていつも人に囲まれてると思ったら、たまーにフラッといなくなっちゃうよね。この間、お昼ご飯のお誘いに行ったら、誰もバンビがどこに行ったか知らないんだもん

 誰かといることは心地よくて、楽しくて、けれどどうしてか、一人になる時間がには必要だった。じっとうずくまって、自分を見つめなおす時間が。そうでなくては、という存在が、どこか遠くに行ってしまいそうな気がして不安になるのだ。馬鹿馬鹿しいと、一喝されてしまうだろうか。それでも、それはきっとこれからも変わることがないのだろう。内気で気が弱く、心を開くことがうまくできなかった少女は、まだ確かにここにいる。誰かと一緒にいたいのに、一人になりたい。そんな思春期独特の矛盾を、彼女も例外なく孕んでいる。それだけのことだ。
 手持無沙汰にサイダーの透明なペットボトルを翳して空を見上げると、世界は少し歪んで見えた。光の屈折と、水中を漂う無数の気泡がそうさせているのだろう。青空の色と光がボトルの中でゆらゆらと混じり合って、なんだか海の底から海面を見上げているような不思議な気分になる。蓋を開けて喉に流し込むと、強い炭酸に涙が滲んだ。鼻の奥がつんとする。普段飲まない炭酸飲料をどうして飲みたいと思ったのだろう。小さなときは、ぱちぱちと弾ける泡が好きで、よく飲んだものだ。今と同じように、炭酸が齎す独特の痛みに涙をにじませながらも、懲りずに、そう、何度も。噎せそうになって思わず俯いた時、少し離れた場所から不意に名前を呼ばれて、目じりに溜まった涙もそのままには顔を上げた。

「こんな場所にいやがったか、おい、何やってんだ?」

 聞きなれた低い声だ。大きな影がぬっと視界に現われて、驚きに一瞬呼吸が止まりそうになる。随分と探し回ったのか、琥一の眉間にはいつもより少しだけ深い皺が寄っていた。暑さを嫌う彼が、一体どうしてこんなところまで来たのだろう。予期せぬ相手の出現に、何か約束をしていただろうかと、はひやりとした汗をかいた。サイダーの不自然な甘さがべったりと喉に張り付いて、上手に言葉が出てこない。

「コウちゃん?どうしたの」

尋ねた自分の声が予想以上に掠れて、は思わず赤面した。なんて可愛くない声が出てしまったんだろう。訝しげに歩み寄ってきた琥一が、驚いたような気配がした。

「お前こそどうしたよ。なんか、ヤなことあったか?」

 見れば、つい先程まで不機嫌そうにキュッと吊り上っていた眉が、困ったように下がっている。しまった、とは後悔した。彼は決して、鈍感ではないのだ。こんな場所で一人ぽつんとしているところを、見つかってはいけなかった。

「なんでもないよ、大丈夫だよ」

 慌ててそう笑って見せたのに、琥一の表情は変わらなかった。むしろ、逆効果だったかもしれない。溜息と共に頭をくしゃりと撫でられて、どうしてか堪らなく寂しくなった。
 琥一の手は少し乱暴だけれど、とても優しい。大きくてあたたかいその手がは好きで、本当はもっと触れたいし、触れられたいとも願っていた。けれど今は、少しだけ怖いと思う。腹の底に沈めた本音を、引きずり出されてしまうような気がした。そんなものは、とてもじゃないけれど聞かせられない。昔から全然変わっていないとよく言われるけれど、そんなことある筈がないという事を、本当に彼は分かっているのだろうか。人並みに嫌なことも良いことも経験して、それなりに嫌な女になったとは思っている。それは、琥一が面倒臭いと一蹴する女子達と、なんら変わらないだろう。は飽くまでも、平凡な少女に過ぎないのだ。聖人のような優しさも、かつてのような無邪気さも、今は兼ね備えていない。いるのは、素直になれない意地っ張りな自分だけ。

「本当に、なんでもないから…」
「バーカ、ンなことはなあ、テメエの面見てから言え。面白ぇことになってんぞ」
「いつもこうだもん」

 頑なに認めようとしないに、可愛げのねえ女だな、テメェはよ、と琥一が呆れたように息を吐いた。これだから女は、と今までにも何度か言われた事がある。それならどうして探しに来たの。放っておいてくれればいいのに。そんな言葉が浮かんできて、結局は唇をかたく引き結ぶだけに止めた。本当に放られてしまったら、それこそどうしたらいいのか分からなくなってしまう。嫌われることは、何よりも恐ろしかった。

 傍にいたいと思ったのは、が先だった。
 当然なのだろうが、琉夏も琥一も、に対して昔のようには接してはくれなかったからだ。特に琥一は、琉夏と違って愛想良くにこりともしないので、余計に取っ付き難かったかもしれない。あからさまに、自分からに近づこうとしなかった。今でこそ向こうから誘ってもらえるようにまでなったが、昔のように他愛無いことで笑ってみたくて遊びに誘った休日も、初めの内は素っ気ないものだった。としては、引っ越してから今までの間に随分変わった街並みを見て歩くだけでも十分楽しかったため、沈黙も苦にはならなかったことが幸いだった。そもそも自身沈黙が辛くないタイプなので、あまり関係ないかもしれないけれど。
 離れていた間に二人に何があったのか、詳しいことをは何も知らない。無理に聞き出そうとも思わない。それはきっと、とても悲しいことに違いないだろうとは思っている。勝手な解釈をするな、と叱られてしまうかもしれないけれど、二人の目の奥に消えることなく秘められているものは、結局、昔も今も同じなのではないだろうか。どれだけ髪色や外見が変わっていたとしても。琉夏は行き場を失ってしまったような悲しみを。琥一は、見守るような優しさを。かくれんぼをしていたあの頃からずっと、彼らは彼らの中の少年を大切にしまいこんできたに違いない。それは、も同じだ。
 あの頃は何もかもが新鮮で、何もかもが楽しかった。どれだけ遊んでも飽きることのなかった、かくれんぼ。私たちはきっと今、自分を探しているに違いない、と、はそう思った。あの頃の、幼く、無邪気であった自分を探している。声を張り上げて、ただただ眩しい思い出を繋ぎとめようと足掻いている。もういいかい。尋ねた声に、例えば、もう声が聞こえなくても、あの日々の美しさを忘れることなど出来やしないのだ。裸足で踏んだ芝の感触、草の匂い、繋いだ手のやわらかさ。
(いつからこんなにも、見失っていたの?)
 どうしてこんなにもあの場所が遠いのか、には分からなかった。傷つかずにはいられなかった幼馴染を、ただ想う。
 木々の隙間から降り注ぐ光が、ちらりちらりと明滅するように揺らいでいる。緑色の風がそっと頬を撫でるのが心地よくて、は目を細めた。まじまじと見上げる機会の減った青空。陽光に透けた葉が、キラキラと輝いている。なんだか眠気がどっと押し寄せてきて、はたまらずに目を擦った。とろりと溶けた瞼が重たい。

「おい、眠ぃのか?」

 琥一に尋ねられて、思わず瞬巡した。それ程までに、急速に思考能力は低下しているようだ。こくりと頷くと、は隣に腰を下ろした琥一の肩に、そっと頭を預けた。ぴくり、動揺がありありと伝わってくる。彼なら甘えることを許してくれるんじゃないか。そんな確信にも似た期待が、浅ましいなと思った。そう、彼はとても優しい。はずっと小さな頃からそれを知っている。だからこそ今、こうした行動に出られるのだ。

「お、おい、なんだよ」

 たじたじと詰まる低い声が心地よくて、はそっと目を閉じた。ああよかった、拒まれはしない。それがとても嬉しい。こんなことは本人に面と向かって伝えられないけれど、琥一が口下手であることに、は救われていた。言葉は、今は煩わしいだけだ。

「なんか少しだけ、疲れちゃった」

 溢した弱音に、溜息が返ってきた。それから、ならとっとと寝ちまえ、という言葉も。些か投げやりのような声音だった。なのに、こんなにも安心させてくれる。先ほどまで思い浮かべる事すら困難だったいつも通りの元気な自分を、もう少しで呼び戻せそうだコウちゃんはずるいなあ、とは心の中で呟いた。こんな風に優しくされたら、勘違いしてしまう――違う、してしまいたくなる。

「お昼ご飯まだなら、私のお弁当、食べてもいいよ」

 微睡みに沈み込みながら脇に置いてあった手提げを指差すと、この状況で食えるか馬鹿、と琥一が苦笑するのが目を閉じていても分かった。それに釣られるようにもくすりと笑う。とてもくすぐったい気持ちだ。虚無的な寂しさが、嘘のように消え失せている。

「此処にいてやっから、ほら、さっさと寝ちまえ」

 投げ掛けられた言葉に、閉じた瞼から涙がこぼれそうになったのは、まだ炭酸のせいに出来るだろうか。手の中で温くなっていくサイダー。きっともう、美味しくはないだろう。冷たさを失ってしまえば、残るのは焼けつくような甘さだけだ。力の抜けた手から、ボトルが転がり落ちていく。
誰も知らない、誰にも知られていない自分を、琥一は知っている。こうして触れ合い、そして弱音を受け止めてくれる。それが何を意味するか、はちゃんと知っていた。兄に甘えるような気持ちでは、この熱は生まれないのだ。一緒にいたいと願う。昔よりも、もっともっと近い場所に。
 ぱちん、透明なペットボトルの内側で、何かが弾ける音を聞いた気がした。

- end -

20110327

もし単独行動好きなバンビだったら。
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