も う 戻 れ な い 5 の お 題


01.こぼれた砂のような

 秋も深まりつつある午後、と琥一は海に来ていた。比較的温かく、天気は晴れ。時折肌寒い風が吹き抜けはしたが、燦々とした日光の下では涼しいものだ。波が穏やかに寄せては引いていく音は琥一にとって聞きなれたものだが、不思議と飽きることはなかった。彼は海辺にあるWest Beachに住んでいるし、このはばたき市に住んでいる以上、海など珍しくもないだろう。けれどは、どうやらそうではないらしい。
 彼女が再びこの街に戻ってから、もうすぐ二年が過ぎようとしている。それにも関わらず、はいつも楽しそうだった。新しい物事の見方や考え方を発見しては、それを教えてくれる。惜しむことなく。それは、ここにはこんな花が咲いているね、といった些細なことで、けれど路肩の花を踏みにじったとしても気付けないような生活をしていた二人だ。自分では到底行き着くことの出来ないであろうその場所を知ることは、琥一にとっても、きっと今日はバイトに勤しんでいる琉夏にとっても、良い事に違いなかった。変化には付き物である痛みも、平等に訪れたけれど。
 子供のようにはしゃいで靴を脱ぎ裸足になったが、海水浴の時期を過ぎて滅多に人が訪れなくなった砂浜に足跡を残している。白い指先が摘まんだ靴は、琥一のそれと比べて随分小さい。軽やかな足取りでさらさらとした砂を踏みしめる、ワンピースから伸びた足。点々と続く、一人分の足跡。少し離れた場所でそれを見守りながら、琥一はぼんやりと小さな頃のことを思い出した。





02.幼い日の想い出

 琉夏が"従兄弟"から"弟"になって、何回目かの冬のことだった。冬休みのある日の夜中、琥一がふと目を覚まして見ると、二段ベットの下にいるはずの琉夏がいない。トイレか何かだろうと思っていたが、琉夏は一向に帰ってこなかった。心配になって家の中を探してみるも、見つからない。両親の寝室へ行ったのかとも思ったが、それはないだろうという確信が琥一にはあった。
 結局、玄関に並べてある靴が足らない事に気がついたのは、琉夏が居ないことに気付いてから三十分程してからのことだった。慌ててパジャマの上にコートを着こみ、マフラーを巻いて外に出ると、そこには一面雪に覆われた世界があった。奇妙な程の静けさが、空気を緊張させている。ふと見れば、玄関から外に続く門に向かって、新たに降り積もる雪によって薄れてはいるが、子供の足跡があった。間違いない、琉夏は家を抜け出して、この門を出た先にいるのだ。琥一はその足跡を追って、歩き出した。傘立ての一番手前にあった父親の傘をさす。夜中にする外出は、冒険のようでなんだかわくわくした。

「ルカ」

 閑静な住宅街の道路、等間隔で立ち並ぶ街灯の光が円を描いていた。それを雪が反射して、夜中なのに妙に明るかったことを覚えている。琉夏はその丸い光の円の中にぽつりと立っていた。真っ白い世界に一人、雪に足跡をつけながら、傘すらささずに。名前を呼ぶと、琉夏がぼんやりとこちらに顔を向ける。コートこそ着ているものの、その他の防寒具の一切を身に付けていなかったので、琥一は慌てて駆け寄り自分のマフラーを巻いてやった。寒いのは苦手なくせに何をしてるんだ、責めるような言葉は浮かんだだけに終わってしまった。琉夏の顔からは、表情が消え失せていた。

「ルカ、おまえ」

 天国は光の中にあるんだ、そんなようなことを琉夏が溢したことがあった。外で遊ぶより、静かに本を読むことを好んでいた琉夏だから、それもまた何かの童話で読んだのだろう。琥一の胸に苦いものが込み上げた。街灯の丸い光の中で、琉夏は探していたのだろうか。足跡をつけてまわりながら、この、薄く発光を続ける心細い夜に。そうだとしたら、サクラソウを探していたよりも、きっともっと酷い。
 琥一は何も言わなかった。不用意な言葉は琉夏を傷つけることをなんとなく感じていたし、そもそも何を言えばいいのか分からなかったのだから、言えなかった、と表すのが正しいのかもしれない。だから黙って二人で足跡をつけて歩いた。同じ場所を何度も何度も、馬鹿みたいに。新雪を踏みしめる度に思い出す、遠い日の二人だった。





03.たとえば二者択一

 琉夏は笑って誤魔化すことを覚えたけれど、琥一は口を閉ざすことを覚えた。自己犠牲を自己犠牲とも知らぬ兄を、いつも琉夏は申し訳なく思う。琥一はいつも進んで泥を被ろうとするし、矢面に立とうとするからだ。コウはいい奴なんだ、とに言った言葉は、紛れもなく、琉夏の本心だった。

ちゃんのことさ、好きなんだろ?コウ」

 突拍子もない言葉に、ガタガタっと大げさな音と共に立ち上がった琥一が赤くなった。声が裏返ったから、ビンゴだ。琥一は本当に嘘が吐けない。琉夏にとって、昔のように三人で遊ぶことは楽しかったし、確かに好きな時間だったけれど、その事で琥一が気を遣っているなら、ハッキリさせる他ないだろう。三人でいる時間が好きだ。けれどこの不器用な兄が、あの子を欲しいと思ったなら。そしてあの子も同じ気持ちなら、何を遠慮する必要がある?は琥一のことが間違いなく男として好きだし、琥一だってのことが女として好きだ。ならそれでいい。もしそうなって二人がうまくいっても、一緒に遊びに行くことも出来るだろう。幼馴染みであることは何があっても変わらない。何より、琥一と琉夏は兄弟なのだ。だから大丈夫だと、琉夏はそう思った。なんだかそうなるが、琥一にとっても自分にとっても、一番いいことのような気がした。

「ルカ…お前はのこと、よ」

 歯切れ悪く言葉を濁した琥一を、琉夏はダセェなコウ、と笑い飛ばした。も大概だけれど、琥一だってそうだ。どうしてもっと、自分を大切にしてやらないのだろう。いつも人の痛みばかりを気にしている。優しすぎる二人が幸せになったとして、誰が文句を云うものか。

「やれやれだ」

 なあブラック、もう影からの手助けは必要ないくらい、レッドは一人前になって、強くなったんだぜ。好きな女の子とオレ、どちらを選ぶべきかなんて、そんなの決まってるだろ。琉夏はひらひらと手を振って、West Beachを後にした。一人残された琥一は、小さく舌を打った。





04.その手をすり抜けたのは

 琉夏を守っているつもりで、いつの間にか守られていたのは、自分だったのかもしれない。そんな事を思うと、琥一は堪らなくやり切れない気持ちになるのだった。立ち止まったまま踏み出すことが出来ていないのは、自分だけのような気がしている。背に庇っていたはずの琉夏は、知らないうちにもう前を歩いているのだ。

「コウちゃんが、そうやって自分のこと大切にしないのが、辛いよ」

 そうしても泣かせた。気分は、最悪だ。汚いことは全て自分が引き受ければ丸くおさまるものだと思っていたけれど、とんだ思い上がりだったらしい。少なくとも、琥一がそうすることで泣く存在がいた。そんなことでが傷付くなんて、琥一には全くもって予想外の事で、酷く慌てた。どうしたらいいのか分からない。鍛えた大柄な身体は、筋肉に覆われている。鋼の肉体、とふざけて形容されることもあった。こんな怪我くらいで、そう、泣く必要などどこにあるのか。命に関わる傷でもないのに。身体は丈夫だと、何度も言っているのに。

「大したことじゃねぇよ」

 安心させたくて掛けた言葉に、はただただ首を横に振るのだった。違うよ、そうじゃないよ、コウちゃん。そう言ってまた泣くの頭を、琥一は不慣れな手つきで撫でてやる。殴られた傷よりもを泣かせていることが辛くて、琥一はそのことを詫びた。出来る限り優しい声音で、出来る限り優しく触れる。

「俺が悪かった、な?だから、泣くな」

 けれどそうすればする程、益々が泣くので、琥一はどうしたらいいのか、本当に分からなくなってしまったのだった。傷つけたいわけじゃ、ないのに。





05.この瞬間に連なる日々へ

 高校生活が幕を閉じて一週間、それはあの教会で互いの心に触れてから一週間という月日が流れたことを同時に意味している。琥一は、と付き合うことになってすぐ、の家に挨拶へ行った。病気になった時の見舞いや初詣の後、出掛けた帰りに時折の家に上がっていた琥一だが、とても緊張していた姿が珍しかったので、今も鮮明に思い出す事が出来る。そこでWest Beachが取り壊される僅かな時間、共に暮らす事を許されたことが夢のようだった。

「ねえ、コウちゃん」

 ソファに腰掛けた琥一の肩に頭を預けて、は小さく笑う。見ていた雑誌から顔を上げた琥一は、照れているのかそわそわと落ち着かない様子で、どした、と問い掛けた。
 は、相手を大切にすることと自分を大切にすることは、同じだと思う。彼のことがとても好きだし、そんな彼が好きでいてくれる自分が好きだから。自分に何かあったら、きっと琥一は心配するだろうから。だから、自分自身のことを、琥一にはもっともっと大切にしてほしい。そう願う。何かと恋の応援をしてくれた琉夏は、きっともうすぐ買い出しから帰ってくるだろう。手渡した買い物メモの通りに買って帰ってくるかは分からないけれど、もうすぐお昼になる。お腹が空いているならきっと、心配をしなくても大丈夫だろう。

「好き」

 何度も伝えた言葉が、ぽろりと零れた。仲の良い友達だと思っていた頃にも、片思いをしていた頃にも、何度となく口にした言葉だ。それがどういう気持ちで紡がれたものなのか、今なら理解してもらえる。ぶれることも、霞むこともなく、一直線に。そのことがとても嬉しくて、ついつい言葉にしたくなるのだ。琥一の動揺が触れた部分から伝わってきて、は少しだけ勝ち誇ったように笑った。まどろっこしい言い回しを面倒臭がって嫌うくせに、直接的な言葉に照れてしまうのだ。勿論、言っているだって、恥ずかしさがない訳ではないけれど。

「ただいまー!コウ、ちゃん、早く飯作って!飯!」

 一階から琉夏の声が聞こえる。お腹が空いて急いで帰ってきたんだろう。予想よりも随分と早い。

「ウルセーのが帰ってきやがったな。オラ、行くぞ」

 助かったと云わんばかりに、琥一が逃げるようにソファから立ち上がった。階段を下りていくのを追って、は、はーい、と間延びした返事をする。二人きりで恋人として出かけるのも勿論楽しいけれど、変わらずに時々は三人で遊びに行きたいなと思う。きっとまだまだの知らない二人のエピソードがあるんだろう。ああ、三人で囲む今日の昼食は、賑やかになりそうだ。

- end -

20110327

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