それは無垢な祈りかもしれない


 過ぎ去った記憶を思い出と呼ぶのなら、ルーティの思い出の中の少年はいつだって不機嫌そうだった。年下のくせに生意気で、地位も身分も確立しているようなお坊ちゃま。お金に固執するルーティを蔑むような、呆れるような視線に、無性に苛立ったのを覚えてる。金に苦労をしなくたって生きて行ける環境があるから、そんなことが言えるのよ!明日の食べ物だってままならない。お腹いっぱい食べて眠れる環境に育ったあんたに、何が分かるの!そう、喚き散らしてやりたい衝動は胸の奥底にいつだってあった。大嫌いだった。

 覚えてる、と言っても、それはもう既に日常の一部だったのだろう。だってつい数ヶ月前の話しなんだから。そう、ルーティ達は旅をしていた。大司祭グレバムから奪われた神の目を奪還するという、旅。それはルーティにしたら、ただのお金儲けと、罪の帳消しのためのものだった。長い、本当に長い旅だったと思う。そんな時間を、生死を共にする仲間として、過ごしていたのだ。ちゃんと、リオンだって。
 決戦前夜、なんだか寝付けなくて、ルーティは宿の外に出た。夜風が短い黒髪を攫って、心地よく頬を撫でる。そして、空中に浮かぶ天上都市、ダイクロフトの影を、精一杯睨み付けた。
 そう。リオンが死んだ。リオンが、あいつがあの都市を作る足掛かりとして、国を――自分達を裏切って、リオンは死んだのだ。最後の最後に、ルーティとの血の繋がりを暴露して、ルーティの精神をひどく揺さぶって、そうして、最後の最期まであの憎たらしい、人を嘲笑うような、見下したような微笑みを貼り付けて死んだ。気付いていたのに。リオンの、目元が腫れていた事に、気付いて、いたのに…。
 リオンは確かに強いけれど、人数を考えれば、自分達に勝つことなど不可能だと知っていたはずだ。聡い少年だったのである。にも関わらず、どんなにあの青い洋服を血に染めても、絶対に奥へ続く道へ進むことをリオンは許さなかった。その傷を治してやることが出来なかったことを、ルーティは少しだけ、後悔している。

「ルーティ?」

 ハッとして振り返る。ぼんやりとした月明りに輪郭を縁取られた長い金髪。ルーティは思わず息を呑んだ。そして、ふと気丈に笑ってみせる。弱い部分をこれ以上見せるには、少しばかり勇気が足らなかった。

「あら、寝起きも寝付きも最高によろしいスタンさんが珍しいわね」

 皮肉を交えた言葉。けれど当の本人であるスタンは、困ったように頭を掻くと、なんだか寝付けなくて、と呟く。そのままルーティの隣りに立ったスタンは、黙ってダイクロフトを見上げた。

「ついに明日なのね」

「…ああ。そうだな」

 長い長い旅を経て、何て事ない成り行きのはずだったそれが、まさか世界を背負う事になるなんて、誰が思っただろう。
 スタンは、何も言わない。明日に決戦を控えて緊張しているのかもしれないと思うとなんだかおかしくて、ルーティはふふ、と笑みを零した。それに対して、どうしたんだ、ルーティ?、そう少しだけあどけない間の抜けた声音に、何でもないわと返す。それからルーティは、ダイクロフトの地殻に開いた穴から差し込んだ一筋の月明りを視線で辿った。フィリアが希望だと言った、光。そして不意に、再び脳裏に浮かび上がった少年の姿に、思わず何かが込み上げた。細い身体の線。淡い紅色のマントに包まれた後ろ姿。他者を見下すような尊大な態度に、視線。愛に飢えていた、たった一人の、血の繋がった弟。

「―――っ」

 なんの苦労も知らない生意気なお坊ちゃまだと思っていた。自尊心の高い、ただの傲慢な子供だと。けれど、それは、間違いだったのかもしれない。

「ルーティ?どうしたんだ?」

 伺うような真直ぐなまなざしに、ルーティはたじろう。何でもないわと、そう誤魔化そうとして、けれど、出来なかった。

「、リオン」

 その名は、空気を凍らせる。スタンは一瞬痛みを堪えるような表情をして、黙って先を促した。ルーティは少し迷う。こんなことをスタンに吐き出すなど、許されるのだろうか。しかし一度開いてしまった唇は、封じ込めていた筈の言葉を、あっさりと放り出してしまった。

「…ねえスタン。あたし、リオンのこと、大っ嫌いだったのよ?」

 年下のくせに生意気で、地位も身分も確立しているようなお坊ちゃま。お金に固執するルーティを蔑むような、呆れるような視線に、無性に苛立ったのを覚えてる。金に苦労をしなくたって生きて行ける環境があるから、そんなことが言えるのよ!明日の食べ物だってままならない。お腹いっぱい食べて眠れる環境に育ったあんたに、何が分かるの!そう、喚き散らしてやりたい衝動は胸の奥底にいつだってあった。大嫌いだった。本当に、本当に大嫌いだったのだ。なのに

「いきなり弟だなんて言って、それから死んで――勝手すぎるわ!」

 そうだ。勝手で、傲慢で生意気で――けれど、きっとそうしなくては、立っていられなかったのではないだろうか。そうでもしなければ、生きて行く事すらままならなかったのなら、どうだろう。スタンには、リオンは弟なんかじゃないと叫んだ。けれど、真実を告げられた時、本当は全て、なんとなく受け入れていたのかもしれない。マリアンというあのメイドを救い出した時、全身を支配した悲しみや怒りは、確かに家族を奪われた時のものにひどく似ていたから。
 馬鹿。本当に、あんた馬鹿よ、リオン。彼女を守るのも、助け出すのも、あんたの役割じゃなかったの?ヒューゴが…ミクトランが正しいと信じていたマリアンは、その無垢な信頼でリオンを殺したのだ。

「ねえスタン…」

「ん?」

 風が、少し強く吹き抜けた。スタンの長い金髪が、ふわりと揺れる。喉が、震えた。

「貧しくても、血が繋がっていなくても家族がいるのと、豊かでも、孤独でいるのと、どっちが不幸なのかしらね…。」

 同じ血の繋がりがあった。けれど、ルーティとリオンの――エミリオの運命は正反対の道に別れていた。もしもリオンが先に生まれていたら?もしもルーティが男だったら?そんなことは誰にも分からない。けれど、少なくともルーティには家族がいた。血の繋がりなどなくとも、守りたい大切な家族が。彼らの為になら、自らが罪を犯すことすら厭わないほど大切な存在が、ルーティにはあったのだ。
 けれど――リオンは?リオンはどうだったのだろうか。
 ヒューゴは、ミクトランにその身体を乗っとられていた。ルーティがガルドを必死で掻き集めている時、リオンは独りきりで剣と勉学に励んだ。全ては、たった一人の家族に認められるためだけに。お金があっても、決して満たされることなどない虚無感にじわじわと侵されていった小さな弟は、あのメイドの女性とシャルティエだけを支えに生きたのだ。もっと他人に優しく出来ないのか、もっと気遣えないのかと苛立ったことが多かったが、リオン自身が他者に分け与えてやれるほどの優しさを受け取ることが出来なかったのだろう。
 そして、結局それらに包まれることなく、死んだ。エミリオ・カトレットは、リオン=マグナスと言う偽りの名を受け入れ、たった独りで死んでいったのだ。傷だらけのあの華奢な身体を冷たい、冷たい海水に沈めて。

「ごめん、オレ、頭悪いから、分かんないや…」

 スタンは悲しそうに目を伏せる。ルーティは、そりゃあんたに分かるわけないわね、と、無理矢理明るく笑い飛ばした。空元気だと言われようが、構わない。ただ、いつもどおりの自分で、明日は決着を着けるのだ。
 姉と呼ばれたことはない。本人に、弟として接したことだって、ない。家族らしいことなど、何一つしてはいない。
 けれど、
 ツンと鼻の奥が痛くなって、視界が微かに滲んだ。泣けない。まだ泣けない。まだ、やるべき事が残っているのだから、だから、まだ――。

「なあルーティ、辛いなら、泣いたっていいと思うんだ」

 遠慮がちに掛けられた言葉に、ルーティは口許を歪めた。どうしてこんなタイミングで、そう言う言葉を吐くのだろうか。本当に、おかしくって、笑ってしまう。

「ふん、冗談じゃないわ!…あたしはもう寝るから、スタン、あんたも早く寝なさいよね」

 踵を返したルーティの背中に、スタンは苦笑した。皮肉混じりの言葉に、短い黒髪。端正な顔立ち。そしてそこから連想出来る人物など、たった一人しかいないではないか。


「オレ、ルーティとリオンって、何だかんだ言ってちゃんと、姉弟だと思うよ」

「…なっ、何よ、そんなこと……!」

「頑固なとことか、そっくりだ」




それは無垢な祈りかもしれない




 あたしは、世界のために命を掛けるんじゃない。クレスタで待ってる家族と、仲間のために戦うのよ。
 でも、ねえ、そんな「仲間」の中に、あんただってちゃんと、入ってたのよ?あんたは認めなくても、撥ね付けてもさあ。この暑苦しい熱血馬鹿の田舎者が、引っ張ってきてくれたじゃない。
 ねえリオン。気付いていなかった、なんて、そんなわけないでしょう?ねえ、リオン――。

- end -

20100926

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