月の揺りかごは唄う


 いっそ気味が悪いくらいに、静かな夜だった。ギィ、ギキィ、と、船が鳴く音、そして潮騒。乗組員も交代の見張りに甲板に立つ者を残して寝静まった真夜中である。モリュウ領領主であるフェイトを救出し、ティベリウス大王を討った今、一行はスノーフリアへ、黒十字艦隊で向かっていた。トウケイからスノーフリアまで船で三日かかる。そのため、溜まっている疲れを癒し、各々久々に自由な時間を満喫することを赦されたのだった。
 ルーティは暗い廊下を歩きながら、ため息をひとつ溢した。気を利かせたフェイトが船室を一人一部屋振り分けてくれたのは、ルーティにとってはとても好都合なことだったのだ。それを利用して、僅かでも換金出来そうな装飾を探し歩いたのだが、彼女の望むような物はこの艦隊にはどうやら使用されていないらしい。特に収穫もなく、彼女は今、部屋を抜け出した時と寸分違わない慎重さで、足音を殺し歩いていた。

(まあこれ、客船じゃないものね…)

 睡眠時間を削って無駄骨を折ったという事実に、再びため息が出る。領主の所有する船とはいえ、艦隊はあくまでも艦隊なのだった。緊急時のために個室に鍵は設けられていないため、倉庫代わりに使用されている部屋にすんなりと入り込む事が出来たというところまでは良かったが、目ぼしい物は何一つなかったのだから、とんだお笑い草だ。あたしのレンズハンターの勘ってやつも鈍っちゃったのかしら、とルーティは唇を不機嫌そうに尖らせ目を附せた。
 スノーフリアに行って、ハイデルベルグ、行く行くはセインガルドを侵攻しようというグレバムの野望を無事に阻止すれば、ヒューゴから多額の褒賞金が貰える。約束を違える程、大企業の社長は落ちぶれていないだろう。それだけあれば、孤児院の借金は殆ど無くなるはずだ。それでも、育ち盛りの子供を大勢抱えた孤児院には、これからもお金が必要になることは間違いない。見通しの効かない未来までも、ルーティは危惧しなくてはならなかった。飢える苦しさを、彼女は知っている。そしてそれは、本来あってはならないことだということも。

「…はぁ」

 これで最後、といわんばかりに少しばかり大袈裟にため息を。まだあと二日もあることだし、あたしもゆっくり過ごしましょ、と気分を切り替えて、自身に宛がわれた船室を目指してルーティは再び歩き出した。

ギィ、ギギィ

 潮騒に混ざって、船が揺れる音がする。ゆぅら、ゆぅらりと静かに揺れるそれはひどく穏やかで、眠気を誘うものだった。自然と瞼が降りてくる。備え付けられているベッドは決して柔らかくはないが、それでも矢張、心地良いものであろう。野宿も決して少なくはない旅だ。真っ白い清潔なシーツを思い出し、幾分歩調が速くなる。その時、誰かの声が聞こえた気がして、ルーティは足を止めた。

「……何?」

 しかし、暗闇に慣れたはずの目には、誰の姿も捉えない。そばだてた耳に届くのは、変わらない潮騒と船の軋みだけ。気のせいかしら、と再び歩き出そうとした時、また声がした。喘ぐような、苦し気なものだ。殆ど吐息に近いそれは、どうやらすぐそこの部屋の中から聞こえてくる。ここは、誰に宛てられた部屋だったかしら、とルーティは首を捻った。ルーティの部屋は、フィリアとマリーに挟まれている。とすれば、スタンかリオンか、いずれかだ。

(スタンはないわね…)

 何せ、魘される程抱え込む性格ではない。そもそも眠ったらちっとも目を覚まさない男なのだ。すると、消去法でリオンということだろうか。答えに辿り着いた途端、ルーティの心に、ふつり、小さな感情が浮かんだ。水泡のようなものだ。けれど、それは幼子の悪戯心に似て、ルーティを誘惑する。
 冷徹で止まない少年剣士とルーティは、決して仲が良いといえる関係ではなかった。いや、リオンは誰にも心を開かないのだ。鋭い目付きで、他人にも自分にも高いハードルを要求する。スタンとルーティに対しては特にリオンの態度はつっけんどんで、お世辞にも良いとは言えないものであった。そんなリオンが魘され、その表情を歪めているのなら、そしてそんな表情をルーティに見られたのだとすれば、彼にとってこの上ない屈辱であろう。電撃を喰らう可能性はあるけれど、バレなければいい。その表情を盗み見て、陰でこっそり笑ってしまおう。
 とても、軽い気持ちだった。ルーティは、こそ泥、とリオンが吐いた皮肉の通り、細心の注意を払って扉のノブを回した。日頃ルーティを馬鹿にする言葉を思い出せば、罪悪感など欠片も浮かばない。ざまぁみなさい、とも思った。それがどれ程浅ましい考えであったか、後悔するとも知らずに。
 カチャリ。小さな音をたてて呆気なく扉は開いた。僅かな隙間に身体を滑り込ませる。本を読んでいたのだろうか、ベッド脇にある台に、残り微かな油を燃やし続けているランプがあった。ジジ、と時折、断末魔のような悲鳴をあげている。そして、ベッドには本を開いたまま眠っているリオンがいた。彼の呼吸は乱れてなく、その表情に苦痛の色はなかった。どうやら、魘されてはいないようだ。なぁんだ、とルーティは人知れず肩を落とすと、そのまましゃがみこんで、眠るリオンの表情を覗き込んだ。

じじ、じ、じ

 油を食い付くしたランプの灯が、音もなく消える。柔らかい橙色に照らされていた室内は途端に黒に包まれる。灯のない真夜中の部屋で、丸くぽっかりと闇を切り取った窓から、冷たい月明かりが射し込んでいた。リオンは静かだった。寝息も潮騒に掻き消されてしまって、はっきりと聞こえない。上下する薄い胸を確認出来なければ、死んでいると勘違いしてもおかしくないだろう。そう、今、リオンは死んだように眠っているのだ。
 ルーティはその表情をつまらなさそうに少しの間眺めていた。けれど、もうこれ以上の長居は無用だろうと立ち上がる。扉に向かって歩き出そうと踏み出した時だった。

「…っは、ぅ」

 突然リオンが苦しみだして、ルーティは飛び上がりそうになった。呼吸は乱れ、眉間に皺が寄っている。助けを求めるように数度もがいた手は空を掴み、顔は、驚く程に白かった。心臓が破れそうな程早鐘を打ち鳴らす。それはまるで、警鐘に似ていた。勘、とも云えるだろう。何故かこの先を考えると自分が酷く傷つくような予感がルーティの胸に渦巻いている。長い間に培ってきた、身を、心を守るために働くようになった勘。それでもルーティの意思に反して、彼女は考えることをやめられなかった。
 今まで何度となく野宿をしてきたけれど、その最中にリオンが魘される事は一度もなかったとルーティは思う。リオンはいつもと変わらぬ表情で、精神を研ぎ澄まし、異変があれば飛び起きる準備をしていた。だとすれば今、こんなにも近い距離にルーティが居ても目覚めないほどに、リオンは熟睡している。今まではいつもスタンと相部屋だったたので気が休まらなかったのだろうか。一人部屋であることや、純粋に身体を蝕んでいた疲れが重なったからだろう、リオンが警戒を緩めていることは間違いなかった。この空間にルーティが居ることは、赦されないことなのだ。
 ルーティは、苦痛に歪んだリオンの寝顔を見て、来るべきではなかったと押し寄せる後悔に胸を痛めた。踏み入れるべきではなかったのだ。軽い気持ちで、踏み込んではいけなかった。リオンの先程までのあどけない寝顔は、少年そのものであったからだ。冷酷さも大人びた雰囲気も纏わぬ、十六歳の少年そのものの姿だった。孤児院で眠るチビ達と何一つ変わらない、無垢な寝顔だった。きめ細かい白い肌は、彼が生活に苦労したことのない裕福な子供であることを表していたが、だから、なんだというのだろう。リオン・マグナスの本来の姿は、胸に抱え込んだ苦しみに夢の中でさえ喘ぐ少年であったのだ。
 ルーティは、リオンに対して抱いていた嫌悪が、今この時、少しずつ、すぅ、と消えてゆくのを感じた。

「泣き疲れたら、夢の中でおやすみ」

 ルーティは再びリオンの傍らに戻ると、小さく歌を口ずさんだ。子守唄だ。家族を想い孤児院の枕を濡らすルーティに、アトワイトが歌ってくれた歌。その歌は誰のものなのか、ルーティは知らない。けれど、母がアトワイトに託してくれたものではないかと淡い期待を捨てきれずに覚えていた歌だった。リオンの表情から、少しずつ険しさが消えてゆく。
 肩から落ちた毛布をそっと引き上げてやって、ルーティはしゃがんだまま、再び穏やかな寝息をたてるリオンの青白い顔を見つめていた。二人は、波間を滑るように進む揺りかごに揺られている。どうしてか、不意に涙が零れそうになって、ルーティは熱い目頭を押さえて低く呻くしか出来なかった。

- end -

20101122

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