憧憬


 どうして好きなのか。どこが好きなのか。そんなことを言っていられる時期はもうとうに過ぎた。ただ、マリアンだから、優しくしたいと思う。汚い部分も、全て見て欲しいと思うし、隠したいとも思う。傷口に触れて欲しいと願うし、ああ、欲まみれじゃあないか。

 エミリオがまだ幼かった頃、肖像画の母の面影を持つ少女が屋敷にメイドとしてやってきた。彼女は聡明で優しく、あたたかい手を持っていた。無条件で安心する。そんな言葉が本当にあるのだということを、エミリオはきっとその時はじめて知っただろう。自分が赤子の時から傍らにいるシャルティエは、けれど温もりを与えることの出来ない無機物であったから、マリアンはエミリオにとって、はじめての「人」だった。
 それと対照的に、父であるヒューゴ・ジルクリストは、冷淡な人だった。最早、人ですらなかったかもしれない。幼い少年にとって、彼は支配者であり、絶対的権力そのものであったからだ。絶望を植えつけ、心の深い部分を真っ黒に塗りつぶしては去ってゆく。そんな、人間だった。追いかけても追いかけても、届くことのない背中。振り向いてほしいと願っていた。
 途方もない、願いのように思えた。
それでも必死に努力をすることを止められなかったのは、きっと期待していたからだ。頑張れば、息子として抱きしめてくれるかもしれない。淡い期待が、捨てきれなかった。捨てきれなかったリオンを、一体誰が責められるだろう。誰が、馬鹿に出来る?出来やしない。孤独に打ち震えていた細い肩を、ああ、一体誰が。

「僕が必ず、マリアンを守るから」

 好きになった理由は、単純だった。マリアンは優しかった。だから、エミリオはマリアンを好きになった。知らない母に似ているから。だから、好きだった。けれどいつしか、そんなことはもうどうだってよくなっていた。マリアンだから、好きだった。いつも、笑顔をくれる人。たくさんのあたたかさを、降らす人。例えばそれが、同情からもたらされるものであっても。エミリオがリオンになって、客員剣士になっても、それだけはずっとずっと変わらなかった。ただ傍にいて、微笑んでくれる。それだけが同じだった。それで、十分だ。

 だから、

「だから君は、」

 どうして好きなのか。どこが好きなのか。そんなことを言っていられる時期はもうとうに過ぎた。ただ、マリアンだから、優しくしたいと思う。汚い部分も、全て見て欲しいと思うし、隠したいとも思う。傷口に触れて欲しいと願うし、ああ、そうだ、けれど一番大切なことを、忘れていた。

「君は、笑っていてくれ」

 リオンは少しだけ笑って、マリアンに背を向けた。向かう場所は、海底洞窟のこの奥へ続く入り口だ。手に握り締めたリモコンを押せば、海水が一気に押し寄せる。押し寄せて、そして、此処へ向かっている彼らも、リオン自身すらも呑み込むだろう。本当は、こんなことはしたくはない。どうしてこうなってしまったのか、リオンにはよく分らなかった。必死に生きてきたつもりだ。精一杯の努力をして生きてきたつもりだ。まだ、足りないというのだろうか。何か、どこか間違えただろうか。一番欲しかったもの、望んだものを追いかけて、けれど結局、このザマだ。優しくして欲しかった。ただそれだけだった。家族として、愛して欲しかった。認めて欲しかった。それだけだったのに。他の誰でもない、自分を必要として欲しかったのに。
 手のひらの震えは、ばれていなかっただろうか。マリアンにちゃんと、笑い掛けることが出来ただろうか。
 リオンはたまらなく切なくなって、押し殺すためにシャルティエの柄を強く握り締めた。そう、ただマリアンだから、優しくしたいと思う。笑っていて欲しいと願う。そうだ、願うだけしか、もう出来ないけれど、どうか。



(エミリオ、と笑う彼女と、その傍らで泣いている幼い自分の幻影を見た気がした)

- end -

20110315

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