遠望


 どこまでも、灰色の空が広がっていた。小さなアパートの三階にある奥の部屋。日当たりの悪いそこは暗く、じっとりとした空気が澱み沈んでいる。湿気を吸った畳の匂い。その隅に敷かれた布団に横たわり眠る母の白い横顔が、場違いに美しく浮かび上がっている。母親が遊び歩きに夜の街へ出かけることはそう珍しいことではなく、特に週末は、翌日の昼まで帰らないこともあった。飲み過ぎたのか帰って来るなり倒れこむように眠りに落ちた母の、すーすーという規則正しい呼吸音を聞きながら、ぼくはそっとベランダの窓を開ける。霧のような細かな雨の粒子が降り注ぎ、空を覆う分厚い雨雲と同じ、アスファルトをどんよりとした濃い鉛色に変えていた。
「あめあめ、ふれ、ふれ、かあさんが……」
 テレビで覚えた歌を口ずさみながら、伸ばした手が濡れていくのが分かった。濡れる、というよりは、湿る、といった方が正しく思える程だ。無造作に置かれている台に乗ってベランダから見下ろす景色は閑散としていて、時折車が通りぬけて行った。あの細い道の向こうに母が消えていく姿を、もう何度見送ったのだろう。母が仕事に行っている平日の昼は、いつも一人で本を読んで過ごした。本当はそういった子供を預ける施設があるらしいのだけれど、母は、初流乃は賢いからお留守番くらい一人でも出来るわよね、とにっこり微笑んで、冷蔵庫の中に簡単な食事を用意し出て行ってしまうのだ。無駄なお金だ、と。だからぼくは母と、時折連れて行ってくれるスーパーのおばさん、病院の先生くらいしか知らない。
 狭くて暗くて、いつも世界は、ぼくに対して余所余所しかった。父親のことは何も知らない。知っているのは、誰もぼくを望んではいなかったということだ。そう、ちゃんと知っている。この部屋の外にいる沢山の人達は、もっときちんと、誰かに愛されているということ。一緒にあたたかいご飯を食べて、沢山話をして、同じ布団で眠る。おはよう、とか、おやすみ、とか、惜しむことなく。テレビだけじゃなくて、本当に、もしかしたらすぐそこの窓の向こうでだってそれが当たり前の世界があるってこと。
「じゃのめで、おむかい、うれしいな……」
 それと同じくらい、もうちゃんと、分かっていた。
 きっとぼくに、迎えはこない。


遠望


 じくり、膿んでいるかのような妙な痛みに目を覚ます。サイドテーブルにある細やかな装飾の施された置時計を手繰り寄せて見れば、どうやら仮眠としてソファに身を預けてから一時間しか経っていないようだ。ジョルノがネアポリスを中心としたギャング組織、パッショーネを掌握してから二年。亡きブチャラティの遺志を継ぎ忙しなく日々を過ごしていたら、季節を感じる間もなくあっという間に二巡りしてしまった。しかし、この街を描いた夢のように変えるにはまだまだ足らない。日々手探り状態であるが、ココジャンボの中に未だにしがみついて生活しているポルナレフの存在はとても心強かった。寝起き独特の怠さを振り払うように、備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し喉を潤す。まだ別室で深く眠りこけているであろうミスタに、後で熱いカッフェを淹れてもらおう。そう思いながら分厚い遮光カーテンを開くと、外は暗く、しとしとと静かに雨が降っていた。夜明け前の時間帯であることも相まって、そっと開いた窓から吹き込む風は少し冷たい。一緒になって雨が降りこみ上等の絨毯を濡らしたが、ジョルノは別段それを気に留めるでもなく、しかしこれ以上窓を開けていても体が冷えるだけで無駄と判断したため、溜息を一つ零しながら窓を閉めた。
 雨の日は、ピアスホールが微かに痛むのだ。翡翠の宝石をあしらったシンプルなピアスをそっと指先で撫でながら、ジョルノは目を閉じた。じくじくと疼くそこは、心音に呼応しているかのようだ。一定のリズムで脈を打つ。
 日本を離れてこの国、この街へやってきた日も、確かこんな雨だった。別段、日本に思い入れがあった訳ではない。けれど、突然言葉の通じない国へ連れてこられたことは酷く不安で、泣いても無駄なのだと日頃から強く心の中で言い聞かせていたのにも関わらず涙が溢れたことは覚えている。突如現れた、血の繋がらない父親。以前にも増して無関心を貫く母親との関係も変わらず、ここが貴方の部屋よ、とほんの少しの荷物と共に放り込まれた部屋は、やっぱり余所余所しかったことをよく覚えている。そこしか居場所はなかったが、けれどそこも決して、幼い少年を受け入れている訳ではなかったのだ。義父はよくジョルノを殴ったが、母親がそれを庇ったことはただの一度もない。世界に必要な人間と必要じゃない人間がいるのなら、自分は圧倒的に後者なのだ、と。子供の世界を占める親の存在はとてつもなく大きい。その時幼い胸を満たしたどす黒い絶望は、一体どれ程ものであっただろうか。虐げられることも痛めつけられることも仕方がないことだと諦め、自分はこの世のクズだと、ずっとこんな風に人から傷つけられて、地べたに転がったまま死んでいくのだと信じていたあの頃の絶望は。
 子供の頃の記憶は古傷に似ている、とジョルノは思った。日頃は全く気にもならないくせに、時折こうして痛みだすのだ。かつて名も知らぬギャングの男に救われ、そしてジョルノ・ジョバァーナが捨ててしまった、愛されなかった子供の名前。それは裏社会に身を投じ、宝石のように輝くジョルノの魂の、唯一柔らかな部分として今もずっと、ジョルノ自身が気づかずとも、ひっそりと息衝いているのだろう。
 ジョルノは二、三度億劫そうに瞬きをすると、再びカーテンをひいてすっかりと窓を隠してしまった。もう一度横になる気には到底なれず、ならばさっさと書類に目を通した方が効率が良いと判断したのだ。幸か不幸か、感傷に浸っていることが赦される程暇を持て余せる立場ではない。歳はまだ十七と幼い部類に分類されるが、一つの裏社会を牛耳る組織の頂点である事実は揺るがない。年齢など言い訳にすらならない、命のやり取りなど然程珍しくもない場所に自分は今立っているのだ。それは勿論誰かに強制された訳ではなく、自らが自らの夢のため、そして希望のために選び掴み取ったものに他ならない。
 もうあと二時間もしたらミスタが起きてくるはずだ。そうしたら熱いカッフェと共に朝食を食べて、シャワーを浴びよう。それまでに終わらせることが出来るであろう書類の束をなんとなく想像しながら、ジョルノは部屋の電気のスイッチをつけるべく踵を返した。カーテンに遮られた窓の外では、まだ冷たい春の雨が降り続いている。


      *
 

 ジョルノとミスタは、今現在ネアポリスの街中に五つの建物を借りて、そこを転々としながら生活をしていた。勿論ミスタにはジョルノと出会う以前から借りている街の中心部からは少し離れた古いアパルトメントの一室があるし、ジョルノにもハイスクールの学生寮の一室が未だにきちんと残っている。しかし、駆け出しのボスとその腹心にはやはりそれなりの危険が降りかかるものだ。だからこそ一つの建物に留まる事は避けなければならないし、リスクは回避すべきだとジョルノは考えた。パッショーネの持ち物であるホテルを使ってもいいのだが、万一襲撃を受けた際に一般人が巻き込まれることを考慮してのことだ。下手に外食をして毒を盛られる危険もあるため、この生活をはじめてから食事はミスタが用意している。意外なことに、ミスタの作る食事は大雑把ではあるが悪くないのだ。オレが作ってやるよ、と初めて言われた時は一体何を食べさせられるのかと不安になったものだが、今では毎日作ることで更に上達し、レパートリーも増えたミスタの料理が楽しみになっていた。

「おい、何笑ってんだァ? ジョルノ」

 毎日誰かと顔を突き合わせて食事をする日が来るなんて、とジョルノは奇妙なくすぐったさを感じた。学校の寮では食堂で食事をすることもあったが、パンなど簡単なものを部屋に持ち帰って済ませることの方が多かったように思う。同級生の中に、自分と同じような夢を持っている人間は当たり前ながらいなかったし、女生徒の黄色い声の煩わしいことといったら。見ている景色も何もかも、彼らと分かち合える日はこない。それはこれからも、きっと、ずっと。無駄なことを嫌うジョルノは、徹底して彼らと関わりを持とうなどと思わなかったのだ。
 それが今はどうだ。底抜けに陽気で、欲望や感情に非常に素直である、自分とは全く異なる性格をした男と共同生活をしている。しかも、出会った当初、ミスタはジョルノにとってギャングの先輩という立場だったのに、今は部下だ。その事実を改めて認識した今、笑わずにいられるだろうか? 答えは否だ。

「いえ、別に大したことじゃあないですよ」

 温かいパニーニを頬張りながら、クス、と微笑んだジョルノを訝しげに見ていたミスタは、すぐに興味をなくしたのか、ふーん、と自分もパニーニにかぶりつく。ジョルノはこの生活に心地の良さを感じていた。死線を何度も共に潜り抜けてきた仲間としてジョルノはミスタのことをとても信頼しているし、ミスタとてそれは同じだろう。基本的に事務仕事はここでこなしているが、重要な報告が入る日などは組織の本部へ足を運んでいる。そこで求められるのは完璧なボスの顔だ。勿論ミスタとジョルノの関係は仲間であり気の置けない友人でもあるが、上司と部下でもある。ここでの生活の中でもある程度のボスとしての顔は必要であるが、人心地つけることの出来る身近な人物はミスタだけだ。
 ジョルノは綺麗にパニーニを食べ終えると、三杯目のカッフェを飲み干し立ち上がった。皿を流しへ運び、軽く手を洗う。

「ご馳走様でした。美味しかったです」
「そーかよ、お粗末さん」
「ミスタ、今日の昼食はピッツァ・マリナーラがいいです」
「へーへー、ボスの仰せのままに、ってな」

 ふざけて笑いながら、仕方ねえな、材料あったか? と、ジョルノと同じように席を立ったミスタが冷蔵庫と戸棚を覗き込んだ。ミスタは拷問や銃殺といった行為を躊躇わない程度には裏社会に生きる者として感覚がぶっ壊れてはいるが、実生活において特殊な性癖を持ち合わせてはいない。大らかであり、面倒見のいい男なのだ。だからこそジョルノは時折こうして我儘を言いつけてみたりする。すると大抵ミスタは今みたいに、渋々だったり、ふざけたりしながら応えてくれるのだ。そんな腹心の背中を尻目に、仕事に戻ります、と一言声を掛けジョルノはキッチンから廊下へ出た。
仕事に戻るとは言ったが、食事までに想定以上の量の書類を捌けたことだし、バスタブに湯を張ってゆっくりと風呂に入るのもいいかもしれないと、ふと思った。抗争などがあっても、組織のトップ直々に出向くことなどそうそうあるものではない。心構えはいつでも出来ているが、実際この二年間、戦い体を動かすことよりデスクワークをこなしていた時間の方がうんと長いのだ。ここ数日だってまともに睡眠をとっていない。長時間のデスクワークで肩の筋肉はガチガチに凝ってしまっている。
 そうと決めれば行動は早いもので、白いタイル張りの浴室にある大きなバスタブにジョルノはすぐさま湯を張った。時折こちらの体を気遣って連絡をくれるトリッシュがこの間送ってくれた入浴剤をついでに放り込む。しゅわしゅわと泡を出しながら星の形をしたそれが湯に溶けながら消えていく様をのんびりと見守りながら、目一杯足を伸ばした。大きめに設計されたバスタブは、あれから更に成長し身長が180を越えようとしているジョルノの体を包んでも尚余る程だ。

ザァァ――

 熱気や湿気が籠らないようにと開かれていたルーバー窓から、静かな雨音が聞こえてくる。
トリッシュとは、あの戦いの後暫く共に暮らしていた。それはトリッシュだけでなく、気持ちの整理をつけるのに、ジョルノにとってもミスタにとっても必要な時間だったろう。三人は二年前、共に激動の時間を過ごした。それは一週間という短い期間での出来事であったが非常に濃密で、全てが終わってしまった後、まるで置いて行かれたような心細さを覚えるのは仕方がないと思える程だった。日中、ジョルノとミスタはトリッシュの父であり、パッショーネの前ボスだったディアボロの持っていた財産や権利書など様々な組織運営に関する資料を探し回った。巧妙に姿を隠し、過去の足跡を消しながら生きてきた男のことを探るのはとても骨の折れる作業であったが、天が味方をしてくれているかのように、順調に事は進んだものだ。そして夜は三人で温もりを確かめ合うように身を寄せ合って過ごした。大きなキングサイズのベッドに寝転びながら、ブチャラティ、アバッキオ、ナランチャ、今は亡き仲間たちの話をした。しかし悲しいことに、出会った時期も過ごした時間の長さも何もかもが違う三人が話す彼らは、時折全くの別人のように感じられた。だから一番彼らと長い時間を過ごしたミスタの話を、二人はじっと、時に笑いながら寝物語のように聴いていた。そんな忙しくも寂寥とした、傷を舐めあうような生活に幕を下ろしたのは、意外なことにトリッシュだった。

「あたし、ブチャラティが残してくれたあの家に住むわ」

 そう言い切った彼女の瞳はとても強い輝きに満ちていたのを覚えている。ブチャラティはトリッシュに、家を一軒遺していた。ネアポリスから離れた小さな村の傍にある、海の見える家だ。品のいい調度品の揃った、白く清潔な小ぢんまりとしたその家は、ブチャラティらしい、優しい空気に溢れていた。その家に初めて足を踏み入れた時、彼女はあんなに泣いていたのに。
 トリッシュは本来ギャングとは何の関係もない、ブランドや流行物が好きな普通の少女だった。そんな彼女が一人、街から離れたあの家に住むという。その決意の心は、なんと尊いのか。

「ジョルノ、ミスタ、必ずまた会いましょう。あたし達、もう友人だもの。いつでも遊びに来てね。あたしも会いに来るから」

 チャオ、と短い挨拶と共に去って行った彼女は、元気だろうか。数日後に控えた彼らの命日には、久しぶりに会うことになっている。去年の命日以来会っていないのだから、本当にきっかり一年ぶりの再会となるわけだ。
 ジョルノはそっと雨音に耳を傾け目を閉じた。入浴剤のせいか、花のような柔らかな香りが湯気と共に立ち昇ってくる。
 風呂を出たらざっと身支度を整えて、まだ残っている書類を昼までに片付けよう。それが終わったら、またミスタと、彼が苦労して作ったであろう食事をとって、それから、夜の会合までに手配しなければならないものもある。本部に状況確認もしなくてはならない。あと、それから、それから……。
 時折、辟易したり面倒だと思うことはあるが、やるべき事が絶えないというのは、本当に、とても良い事だった。着実に夢や理想に近づいている実感もある。実際この二年でネアポリスの犯罪率は大幅に減少した。麻薬だって、もう売らせはしない。路地の奥に入ると座り込んでいた沢山の麻薬廃人達の姿は、今は影も見なくなっている。
 しかし同時に痛感するのだ。掲げた理想にはまだ遠い。長い時間をかけて積み上げられてきた負の遺産はまだ尽きない。甘い汁の味を忘れられない奴らは五万といるだろう。麻薬を売らない、というジョルノの判断に異を唱え反発した者たちの、なんと多かった事か。粛清を決断したいつかの夜、正しいと信じた道を進むために多くの組織や麻薬関係者に手を下したことは、今でも記憶に新しい。火薬と悲鳴と血の臭い。それを覚えている間は、余程頭が悪くなければ、下手にこちらに手を出そうとはしないだろう。流石にジョルノも、そしてミスタも精神的に疲弊はしたが、必要な事だった。この軌跡に無駄なことなど一切なく、正しい行いであったのだとジョルノは迷いなく信じている。彼が愛しているのは希望だ。冬を越せばまた春が来るように、夜が明ければ朝日が顔をのぞかせるように、希望はいつも道を照らしだしてくれる。たとえそれがどんなに困難なものであっても、諦めることはないとジョルノ・ジョバァーナは決心しているからだ。

(ぼくは、必ず貴方達の目指した場所へ辿り着いてみせる)

 ふ、と短い息を吐き出して、軽く自らの頬を叩く。湯船から上がって髪を乾かし、ぱりっとした清潔なシャツに袖を通したならば、今からはまたギャング・スターとして過ごす時間だ。ジョルノは黄金の、緩やかな癖のついた髪を後ろ手に編むと、バスルームを後にした。そこには未だ、甘い花の香りが満ちているのだった。


      *


 去年は三人揃って墓参りをし、三人で一緒に帰った。けれど今年は三人で揃って墓地まで行ったが、思い思いに報告を終えると自然とバラバラになって帰った。
 互いの傷が明確に剥き出しに見えたあの頃と違い、皆それぞれ、彼らの死によって受けた胸の苦しみや傷は癒えかけている。いずれこの傷口が完全に瘡蓋となって閉じ、それすら剥がれ落ちた時、つるりとした薄桃色の傷跡は残れど、漸く彼らを過去にできるのだろう。しかし今はまだ、個人差はあれど、時折痛むそれを抱えて上手に話せるほど彼らは大人ではなかった。
 三人にとってこの墓は、ある意味で第二、或いは第三の人生のスタート地点なのだ。ジョルノとミスタはパッショーネを新しく作り変えることを誓い、トリッシュは全うに強く生きて行くことを誓った。それぞれが新しい道に向かって歩き出した場所、ということは、それぞれの別れの場であるのと同義である。だからこれで良いのだと、ジョルノは一人冷たい墓石の前に膝をついた。祈りの言葉を、彼は持たない。祈る神すらジョルノには存在しない。短い時間だ。本当に短い時間を共に過ごした。しかしその僅かな時間しか過ごさなかった自分に、彼らは未来を託してくれた。その意味を、重みをジョルノは時折痛いほど感じるのだった。
 どうしようもなかったことだが、ふとした瞬間にネアポリスの街で彼らの面影を感じることがある。そしてその度に、彼らがもう二度とこの街の土を踏むことがないのだと思い知る。彼らの遺してくれた物を本当に受け継ぐことが出来ているのか、不安になることがないと言ったらそれは真っ赤なウソだ。だから時折、それこそどうしようもなくなるとジョルノはここに来た。墓石に刻まれた名を指先でなぞり、心に深く刻み込んだ。彼らの死が、彼らの存在こそが希望の礎なのだと、その度に強く感じることが出来たからだ。

「ブチャラティ、ぼくは」

 不意に、じくりと耳が痛んだ。先ほどまであんなに晴れていたのに、どうしたことだろう。春先はどうも天気が定まらないことが多い。見上げれば、湿っぽい風が黒い雲を連れて、ものすごい速さでこちら側へ流れて来ている。

「ぼくは、大丈夫です。だから、また来ます」

 ジョルノは微笑んで、くるりと墓に背を向けて足早に歩き出した。ああ、傘を持ってきていない。自分としたことがなんて初歩的なミスだろう。雨は嫌いだ。雨雲が太陽を覆い隠してしまう。陽の当たる温かい場所を、幼いころは常に求めていた。夜の延長上にあるかのような、そんな鬱蒼とした景色が恐ろしくて、たまらなかった。

(何故、こんなことばかり思い出すんだ)

 苛立ちに、つま先で土を蹴る。不意に迷子になったような、そんな得体のしれない不安が胸の奥からせりあがってきた。最悪だ。もう何年もこんなこと思い出したことすらないのに。弱虫で、希望すら信じられず、地べたを這いつくばるようにして生きる事しか許されなかった記憶。ジョルノは、大抵の人間が当たり前のように手にし、人格形成や心の発育に必要不可欠であるといわれている、いわゆる愛情というものを一切知らない。傷つけられること、痛めつけられること、無視されること。惨めで辛くて悲しくて、そんな思いが彼の心の奥底にはじわりと染みついている。名も知らぬギャングの男に、初めて一人の人間として対等に扱われた時、暗闇に沈もうとしていた心に一筋の光が射したのだ。その一筋の光を、希望を追いかけて走り出すことが出来なければ、とっくに泥に呑まれていただろうに。緩やかな堕落。真綿でじわじわと首を絞められるような、恐怖を煽る心の殺し方。それら全てを撥ねつけ、自分だけの道を進む足取りの軽さと恐怖心よ。その経験全て、きっと何一つ無駄な事ではなかった。今のジョルノを形作るのに必要不可欠であったことなど、本人が一番よく分かっている。例えそれが、どんなに苦しく、捨ててしまいたいと願うほどであっても。

「あめ、あめ、ふれ、ふれ、かあさんが……」

 ぽつり、頬に雨粒が触れた。ぽつり、ぽつり、それは少しずつ強くなり、容赦なくジョルノの体温を奪っていく。涙を流すなんて、無駄だ。泣いたって何も変わらない。余計に惨めったらしく、気持ちが暗くなるだけだ。そう言い聞かせ続けたせいか、その瞳は変わらずに乾いている。眼球を覆う薄い涙の幕は、震える事さえしないのだ。じっと耐える事には、慣れている。慣れている、はずだ。それがどうしてか、目の前が暗い。もう殆ど忘れてしまった、日本の歌。口ずさめば途端に、強く変わる前の自分に戻ってしまったかのような錯覚に陥る。

(汐華 初流乃)

 捨てた名だった。もう名乗ることはない。弱虫で、いつも夜に、闇に怯えている。自信に満ち溢れたジョルノとは似ても似つかぬ、幼く、親から愛されない可哀想な子供。

(きっとぼくに――)

 胸を焼き尽くさんとしていた過去の絶望が、じりじりと体を内側から焼いていく。酷く、不安定な気がした。揺れている。気分が悪い。フラッシュバック、という言葉を思い出す。まずい、そんなことはあってはならないことだ。何故なら自分は強くなったのだから。もう、泣きべそをかいていた子供ではない。一人の人間として誇りを持って生きて行くことが出来るのだ。

パッパ――ッ

 そんな不明瞭な思考の淵からジョルノを呼び戻したのは、耳障りなクラクションの音だった。はっとして見ると、すぐ脇の道に見慣れた防弾加工の施された車が一台停まっている。まさか、先に帰ったんじゃあなかったのか。ジョルノが驚きに微かに目を丸くすると同時に助手席の扉が些か乱暴に開き、早く乗れよ、と聞き慣れた声が続いた。

「酷く降られたな。流石にやばいと思って迎えに来たぜェ〜」

 陽気な声。ミスタはずぶ濡れのジョルノを見て遠慮なく笑った後で、無造作に後部座席に放ってあったタオルを投げてよこしてきた。ミスタのそういう所が、ジョルノには時折ひどく眩しい。無神経と取られがちだが、そうではないのだ。案外ミスタは人の変化に鋭かったりもする。気付いていながら知らぬ素振りをすることも、必要なのだ。その証拠に、一頻り笑って以来、ミスタは一度もジョルノを見ない。

「なんで、来たんですか」
「だから、雨が降りそうだったからだろ」
「たったそんなことで……」

 雨が降ったから迎えに来た? このタイミングで?
 強い衝撃が胸を襲った。いっぺんに色んな感情が押し寄せて、ジョルノは自分の唇が微かに震えるのを感じた。泣き出す直前のような熱が喉元で燻っている。冷えた身体にそれはあまりに熱すぎて、火傷してしまうんじゃあないかと思うほどだ。他の誰でもない、ジョルノを、雨が降ったからなんて死ぬわけでもないのに心配して迎えに来た。迎えに来る人がいた。それは部下としての行いではなく、友人として、同士として、一人の人間として与えられたものだった。血の繋がった親ですら与えてくれなかったものを、どうしてこうも、まるで当たり前のようにくれるのだろう。ジョルノに必要な物は、いつだって他人が与えてくれる。まるで肉親から得られなかった空洞を埋めるかのように、いつだって、何度だって。
 ジョルノ、とミスタが呼ぶ。ジョルノ。初流乃ではなく、ジョルノ、と。その名が、自分をいつだって太陽のもとへ連れて行ってくれる。ジョルノ。白日。太陽の光を意味する自分の名前が。心が震えた。耳の痛みが、やけにリアルに感じられる。墓に行くたびに新たに立てる誓いの数々が、背中を押してくれるような気がした。大丈夫だ、一人では出来ないことだってきっと叶えていける。彼らの遺した財産と、共に目指す仲間がいればきっと。闇の中だって、輝きを見失うことはないのだ。一体何をこんなに恐れていたのだろう。疲れてどうかしていたのかもしれない。やれることを全力でやるだけだ。もう非力な子供ではないのだから。もっと自ら輝いて行かなければならない。苦難や困難を乗り越える覚悟はいつだってできているのだ。
 ひでェツラだぞ、ボス。とミスタが笑う。底抜けに陽気で、初めはどちらかというと苦手なタイプの人間だった。理性や計画性、そういったものに基づいて冷静に行動を決定するジョルノとミスタでは、相性がいいなどととても思えない。けれど彼のマイペースを貫く強さは、思わぬところで鋭い一発の弾丸のように闇を切り裂き、ジョルノに光を見せてくれる。

「酷くて悪かったですね……トリッシュは?」
「一足先にホテルに戻ったぜ。こっちに泊まって、明日は街で買い物して帰るってよ」
「そうですか、では久々にどこか、ディナーに出掛けましょう」
「お、いいねェ。美味い酒が飲めりゃあ上出来だ」
「一応言っておきますが、彼女もぼくも未成年ですよ」
「トリッシュはともかくよォ、ギャングのボスが何言ってんだァ? 大体お前、いつも普通に飲んでんじゃねえか」

 ぎゃはは、とミスタがお世辞にも上品とはいえない笑い声をあげる。それを黙って聞いていると、激しく空から降ってきた水滴がフロントガラスを叩きつけるように濡らした。スコールのようだ。これだけ雲の流れが速ければ、きっと長続きせずにすぐに晴れるだろう。前髪から滴る雫をタオルで丁寧にふき取りながら、ジョルノの心は空と裏腹に晴れ晴れとしていた。しかしどうやら、隣の男はそうではないらしい。

「げっ、先日洗車したばっかりだってのに!」

 先程までゲラゲラ笑っていたとは思えない、心底嫌そうなその声。ジョルノはとうとう耐え切れずに声を上げて笑った。

「ねえミスタ。また雨が降ったら、今度はじゃのめで迎えに来てください」
「はあ?ジャノメってなんだよ」
「ジャッポーネで昔使われてた、傘のことですよ」

 拙い歌声が、鮮やかに蘇る。小さな自分が歌った、雨の歌。
(じゃのめで、おむかい、うれしいな)
 その声音は不思議と、もう悲しさに濡れてはいないのだった。

- end -

20130808

支部にあげた奴。折角なので。
ジョルノとミスタの相棒のような間柄が好きです。
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