深夜に大雨が降ったせいで、満開に咲いたばかりの桜がはらはらと地に落ちて、跳ねた泥に汚されていた。日中なのに酷く薄暗い。冷たい廊下を歩きながら、那岐は外にぼんやりと視線をやった。雨脚は次第に弱まり、今は、けれどしとしとと降り続いている。もう春だっていうのに、こんなに冷え込まれちゃおちおち昼寝も出来やしない。数日前までの心地よい陽射しを思い出して、それがまたより一層、那岐の気持ちを陰鬱にした。
「千尋、入るよ」
女王陛下となった幼馴染――家族といった方がいいのかもしれないが――の部屋にこうも簡単に入るのは、きっと本来ならば許されないことなのだろう。けれど今は、あんなにも体裁に拘る狭井君も何も言わずに那岐や、彼女と共に戦った仲間の出入りを黙認してくれている。それはどういうことなのか。説明を求める者など今は誰もいないだろう。細やかな装飾の施された扉を開けると、褥から身を起こし座り込んだ小さな背中が視界に飛び込んできた。那岐、と名を呼ぶ声は、嗄れてしまったのか酷く掠れている。
「これ、風早からだってさ」
「…ありがとう」
千尋の顔色は悪く、青白いを通り越して土気色だ。この薄暗い室内がそう見せているだけだとしても、それが決して健康でないことは明白だった。
(でも、昨日よりマシか)
那岐は溜息をついて、ここに置いとくからね、と部屋の片隅にある机の上に風早から持たされた握り飯の乗った皿を置く。そして、そのまま畳にどかっと腰を下ろした。雨独特の湿気のせいか、空気が重みを増しているように感じられる。けれど、那岐にとってはそんなことはどうだって良かった。言霊が力になるというこの国で、けれど那岐は決して言葉巧みではない。そして、然程それが必要だとも思っていなかった。今はただ、なんでもない顔をして此処にいてやろうと思う。いつも気丈に振舞っていた彼女は今、完全に折れてしまっていた。これでもまだ回復してきた方なのだから笑えない。こんな風に、抜け殻のようになってしまった姿は付き合いの長い那岐とて見た事がないものだ。食事もとらず、ただこうして塞いでいる。返事をしてくれたのは、今日になってやっとだった。
三日だ。たったの三日前の話。長かった戦いに幕を下ろし、二の姫たる葦原千尋が即位の式典にて正式に中つ国を統べる王となった。沢山の喜びが生まれ、希望が橿原宮を包んだ式典。そこで千尋は言ったのだ。大切な人を失わない平和な国を作っていくと。そう民に約束をし、また、志を謳った。にも関わらず、失くしてしまった。辛い戦いの日々を共に駆け抜け、そして彼女が愛したたった一人の男は、最期まで彼女のつくる未来を信じて逝った。その未来ごと彼女を守るためにたった一人、千尋を置いて逝ってしまったのだ。
「忍人さん…」
ぽつん。雨音と、僅かな衣擦れしか聞こえなかった室内に、啜り泣くような千尋の声が響いた。その名前は、水面に落とされた一滴のしずくのように波紋を広げる。葛城忍人。彼女の愛した、虎狼の剣士と敵国にまで名を馳せた将軍だ。破魂刀に命を喰われ、じわじわと蝕まれていたその人は、式典の最中の無防備な千尋を暗殺しようという常世の連中の計画を阻むことで命を落とした。その亡骸の近くに倒れていた叛徒から聞いたことだ。戦いが終わってからは療養に専念していたが、今までに喰われた生命力が還ることはなかった。彼はもう、権を捨てたところで永くはなかったのかもしれない。
那岐は目を閉じて、旅の日々を思い出した。人との関わり合いや集団行動を好まない那岐からしたら、迷惑で煩わしいことの続く旅だった。千尋がいなければ、絶対にその場に留まっていたいとは思わないくらいには。それでも矢張り慣れは来たし、背中を預けあうような間柄だった事実は消えることは無い。それは、葛城忍人とて例外ではなかった。例外では、なかったのに。
「ねえ、那岐」
「…」
「忍人さん、言ったんだよ。国を一緒に良くしていきたいって。私のために、生きていきたい、って。生きて、きたいって…っ」
大切な人を失わない国を作る。那岐は知っていた。決戦の前にも千尋が言っていたそれが、今は亡きその人と約束をした未来の国の事を指しているということ。これから、この国に生まれる命は、戦によって奪われることはないだろう。そうならないように、彼女はきっとこの状態から立ち上がり、尽力するだろう。けれど、そうして必死に中つ国の民を思いやる少女の一番大切な人は、もうどこにもいない。なんて理不尽なことだろう。
(いっそ、忘れてしまえばいいのに)
そうは思えど、那岐もまた、言葉にすることは出来ないのだった。ただ、いつも何処かへふらりと居なくなる自分を探し出して、帰ろうと笑ってくれた千尋。繋ぎとめようと必死に追いかけてきてくれた大切な彼女の傍にいる。震える肩に腕を回してやるべき人は居ない。居ないから、こんなに苦しい。こんなに悲しいのに。
ふと外を見れば、雨はまたぶり返したように強くなっている。窓硝子に貼りついた一枚の桜の花びらは、くすんだような色をしていた。
- end -
20110920
どうして忍千ルートはこんなに悲しいんだろう
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