花村と自転車の話


 今は辛くたって、いつか絶対、平気になる。だから大丈夫だ、なんて言葉が、一体、今尚降り掛かる苦しみに喘ぐ者に、どれ程の意味があるのだろう。瀬田はぼんやりとそんなことを考えながら、先程話をした一つ年下の少年、小西尚紀のことを思った。
 彼は、四月に何者かによってテレビへ放り込まれて悲惨な死を迎えた、自身の友人――花村陽介の想い人の弟だ。小西先輩に弟がいたことを、瀬田は知らなかった。いや、瀬田は小西先輩のことを殆ど知らない。ジュネスのフードコートでの僅かな会話と、そして、奇妙な商店街にあったあの酒屋で彼女の声が語った、周囲を疎む気持ち。陽介を疎む気持ちを、否定して死んでしまったということだけだ。
 尚紀の触れれば切れてしまいそうな程鋭い瞳には、疲れが滲んでいた。初対面で、嫌いだ、と言われたことには驚いたが、その、何でもないことかのように話す、声のトーン。そしてその最中に自分の反応を、静かに、けれどじっと何かを見極めようとするかのように伺う視線に、どうして嫌悪感を抱けるだろう。

 むっとした六月の空気が肌をベタつかせて、なんとも云えず不快だ。陽はもう殆ど落ち掛けている。こんな時間だ。何か夕飯を、家で待っている菜々子の分も買った方がいいだろうか。そう思い、携帯電話を取り出す。堂島家、で登録された、今現在の我が家の電話番号を押すと、無機質な音の後に、いつもよりいくらか硬い菜々子の声が応えた。引っ込み思案な従妹の、精一杯のよそ行きの声。

「はい、堂島です」

「菜々子?俺」

「あ、お兄ちゃん!」

 ぱっと明るくなる声音から、表情まで想像することは容易だった。早く帰ってやらなくては。そんな気持ちにさせられる。なんだって我慢して呑み込んでしまう健気な子だ。一人でいるには、あの家は広すぎる。

「今日のご飯どうしよっか?なかったら、ジュネスで買って帰るよ」

「ジュネスー!いいな、菜々子も行きたい!」

「今日はもう遅いから、今度一緒に行こう。じゃあ、何か美味しそうなの選んでくるな」

「うん!ありがとうお兄ちゃん」


 すぐ帰るから、と言って電話を切ると、瀬田は足早にジュネスへ向かった。通い慣れた道だ。事件がなければ、この景色を馴染みのものだと認識することなどなかっただろう。一応舗装された、歪なコンクリートを踏みながら田んぼを通り過ぎ、幹線道路へ抜ける。開けた広いその道を辿ればすぐにジュネスだ、という時に、その音は聞こえてきた。
 ギー、ギー
 何かが軋み、悲鳴を上げているような。車通りが激しい訳ではないので、余計に響いて聞こえる。一体なんだ、と不審に思った瀬田が、立ち止まった。
 ギー、ギー
 次第に近づいてくるそれの正体を確かめようと、じっと目を凝らす。すると脇道から、見覚えのある自転車と、それを引く茶髪が現れた。

「花村?」

「……」

 なるほど、花村の自転車の調子が悪いことは知っていたけれど、あんな妙な音をたてるまでになっていたのか。蛍光の黄色に塗られた自転車は、薄暗くなった今、けれどまさに沈まんとしている夕陽を眩いばかりに照り返している。花村が一歩進むごとに、その音が閑静なこの空間でいやに耳につくのだ。当の花村は、そんなものはもう気にならなくなったのか、それとも装着したヘッドホンのせいで聴こえていないのか、こちらに気付くことなくずんずんと歩いていく。瀬田は小走りに近づいて、どこかぼんやりとしているその肩を、ぽんと軽く叩いた。花村はびくっと震えた後、驚いたような目でこちらを見やる。そして、瀬田が相手だと分かると、そのたれ目をゆるりと細めた。

「おっ、瀬田じゃん。買い物?」

「まあ、そんなとこ。花村はバイトか?」

「そ。一旦家で早飯食って、今から出勤」

「大変だな」

 ヘッドホンを外して、何時ものように首に引っ掛けた花村が、勤労少年だからな、と、からからと笑う。他愛ない会話をしながら、目的地が同じなので必然的に肩を並べて歩いた。伸びた影はもう殆ど、夜の闇に溶け込もうとしている。事件のこともあってか、街の人は不用意に外出することを恐れているのだろう。家路を急ぐ人と時折すれ違う程度で、殆ど人影はない。

「そういえばその自転車、すごい音がするな。響いてた」

「あー、修理出すかなぁ…もうボロボロなんだよな」

「そんなに長く使ってるのか?」

「んー、こっちに来てから買ったやつ」

「……半年でここまで?すごいな、才能じゃないのかそれは」

「そんな才能嬉しくないっつーの!」

 嫌そうに顔をしかめた花村が、ったく、と呟いて、片手の手のひらを首の後ろに押し当てて俯き加減にため息を吐いた。癖なのだろうか。花村が自身の首に触れる仕草を、瀬田はよく見るような気がする。
 遠目からでも存在感を醸し出していたジュネスは、もう目と鼻の先だった。光があてられたその巨大なスーパーは、この田舎町からは明らかに浮いて見える。それは花村本人にも云えることで、彼もまたこの八十稲羽からは浮き上がって見えるのだった。
(3D映画みたいだ)
 何故だか瀬田は、そんなことを思った。ここ数年で人気を博している3D映画の、背景から浮き出して見える登場人物。浮き出している、ということは、馴染んでいない、とも言い換えることが出来るのだ。花村は正に、3D映画に登場するキャラクターのように、此処からふわふわと浮いている。それでも馴染もうと、必死になっているのだ。

「従業員用の駐車場あっちなんだ。じゃあまた明日な瀬田!売上貢献、あんがとなー」

「ああ、頑張れよ」

 ぽっかりと口を開けた立体駐車場の闇の奥へ、後ろ手に手を振った花村は消えていく。ギー、ギー、というあの音も一緒に。少しずつ遠くなるその不快音が、けれど耳の奥でいつまでも響いているような気がした。すっかりとそれが聴こえなくなった時、瀬田ははっとして腕時計を見る。話ながら歩いていたら、予定より時間が掛かってしまったようだ。家でじっと待っているであろう菜々子のことを思って、瀬田は慌ててジュネスの入口へ飛び込んだ。




*




 手作り弁当を作った瀬田は、なんとなく尚紀を誘って昼休みの屋上で昼食を共にしていた。居心地悪そうに席で弁当の準備をしていた尚紀は、いきなり一年の教室にやって来た瀬田にひどく驚いていたが、瀬田は構わずに尚紀を教室から連れ出したのだ。すげー美味いと顔を綻ばせる後輩に、失敗しなくてよかったな、と思う。母親が作る弁当の味気なさに冗談めかして不満を言う尚紀は、けれど瀬田のおかずを貰いつつも、持参した弁当箱を着実に空にしていった。そういう所に好感が持てる。
 いつの間にか梅雨は明けて、もうすぐ期末テストだ。夏場の屋上は陽を遮るものがないため、少しばかり暑い。抜けるような青空を見上げて満腹感に浸っていると、尚紀が不意に、花村のことが嫌いな訳ではないとそう呟いた。それから、先輩の仲の良い人のこと悪く言ってすみませんでした、と。律義にも覚えていたらしい。初めて面と向かって会話をした時、花村のことも、花村のツレである瀬田のことも嫌いだ、そう言ったことを。別に気にしていないのに。瀬田はそのままそう伝えると、尚紀はどこかバツが悪そうに目を背けた。それからもう一度、それでも、すみません、と謝罪を口にする。
 花村がもし此処にいたとしてもきっと、気にしてない、と笑うのだろうなと瀬田はぼんやり彼を思い浮かべた。そしてウインクの一つも飛ばしてくるに違いない。瀬田は口元に笑みを添えて、尚紀の肩をぽんぽんと叩いた。ぎこちなく、尚紀もつられて笑い返す。そんな尚紀を見て、瀬田は何故か、あの蒸し暑い夕闇の中に響いていた、花村の壊れかけた自転車の音を思い出した。



「あ、やっべー!プリント忘れた」



 放課後、花村が昇降口で上げた声に、瀬田は下駄箱から靴を取り出しながら首を傾げる。それから、明日提出の宿題があることに思い至って、ああ、と頷いた。といっても、瀬田自身は授業中の余った時間に終わらせてしまったため、別段問題ない。

「悪い、ちょっと待っててくんね?」

「いいけど、なら自転車の鍵貸せよ。俺が取りに行っとくから」

 足早に方向転換をした花村の背中に、瀬田は声を掛ける。すると花村は、え、とどこか一瞬戸惑ったように固まり、いやいいって、と何故だか慌てたように手をぶんぶん振り回す。別にその程度の手間、大したことではないのに。いつもの花村なら、マジで?サンキュー!じゃあ頼むわ。と軽く頷きそうなことだというのに。違和感を残したまま、花村が慌ただしく階段へ走り出す。すぐ戻るからという背中を見送って、瀬田はいつも行くことのない自転車置き場へ向かった。何故か、確かめなければいけないことがあるような気がして仕方がない。温められた地面が放つ熱気を足元から感じつつ目的地に到着した瀬田は、はっと息を呑んだ。花村の自転車は目立つ色合いをしていて、一目でどれだか分かる。けれど、色合いなど、今、関係があるだろうか。列になって並んだ、色とりどりの自転車。その列から無理やり引きずり出され、放り出されている、横倒しの自転車が一台そこにはあった。

「これは…」

 至る所の塗装が剥げた、細かい傷だらけの自転車。近づいて起こしてやると、ギイ、と部品が小さく悲痛な音を立てる。学校で配布されている自転車通学者のシールには、確かに友人の名前が書かれていた。
 何故、ここまで気が回らなかったのだろう。瀬田はいつも足早に自転車を取りに行く花村を見て、自分たちを待たせないためだろうと思っていた。いや、勿論それも理由の一つだろう。けれど、日に日に傷ついて壊れていく自転車に、どうして気付かなかった。花村の運転がどんなに下手であっても、こんなにハイペースであんな音が出るはずないのに。商店街を歩くだけで、あからさまに悪く言われることがあるくらいだ。直接的に見た事はないが、商店街に住む生徒は尚紀や完二をはじめとして沢山いる。全員が全員敵意を持っている訳ではないが、花村がジュネスの店長の息子だというだけで嫌悪感を持っている人間など山ほどいるだろう。だからこそ、花村はあんなにも、この街の景色から浮いてるのだ。

「あーあ、またお前にカッコ悪ィとこ、見られちまった」

 声に振り返ると、息を切らせた花村が、困ったように笑っていた。ゆるり、彷徨った視線が地面を捉え、手持無沙汰な右手が喉元へ伸びる。
(ああそうか、こいつのこの、首に触れる癖)
 それはどこか、自傷行為にも似ていた。


*
 

 二人はギーギーと変わらずに音を立てる自転車をひいて学校を後にした。瀬田は、見てはいけないものを見てしまったような、そんな気持ちで胸がいっぱいになっている。当の花村は、何を言ったらいいのか考えあぐねているようだ。気まずい沈黙の中、鮫川沿いの土手をゆっくりと歩いていく。
 周囲の人とうまくやりたい。仲良くなりたい。そんなささやかな、花村の望み。
 軋んでいるのだ、と瀬田は思った。心が、声が、軋んでいる。尚紀だってそうだ。望んでいるのは、ただ、本当にささやかなことなのに、どうしてこうも満たされないのか。そうして、摩耗していく。心がすり減っていく。いつか、このまま擦り切れてしまったら。この自転車の軋みのように、次第にひどくなって、最期にはもう、軋むことすら――。
 やり切れない思いに、瀬田は思わず立ち止まる。人の力に、支えになってやれるだなんて思いあがってはいないが、これではあんまりだ。

「瀬田…?」

 立ち止まった花村が振り返って、突然歩みを止めた瀬田を不思議そうに見た。明るい髪。人懐っこい印象を与えるたれ目。ジュネスでも商店街でも、理不尽に責め立てられ、しかしその表情を崩そうとしない姿勢。花村はじっと、それらに耐えているのだ。

「花村は」

「ん?」

「花村はバカだな」

「んなっ!」

「バカだよ」

 親の都合で都会から不便な田舎町へ転校して、周囲から疎まれ、責め立てられ、好きな人を失い、それでも花村は笑っている。尚紀と逆だ。笑う事を周囲が許さない尚紀は気兼ねなく笑うことが出来ず、苦しんでいる。ああそうか、この二人はどこか似ているのか。瀬田はなんだか妙に納得して、そして、二人の悲しみの原因が同じ人物の死であることに、また胸が苦しくなった。
 ギギギ、と、自転車が悲しげに軋んだ。

- end -

20120624

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