軽快な鼻歌に合わせて、じゅう、と野菜が鉄のフライパンによって加熱されてゆく音がリズムよく響く。ぴこぴこと人工的でひどく機械的なでたらめな音声を響かせるゲーム機器が立ち並ぶこの部屋で、それだけがひどくうつくしい音であるかのように、常守の耳は一音一音丁寧に拾い上げた。温められたオリーブオイルのかおりが、ふわりと広がる。美味しい匂いに、美味しい音。一日の仕事の疲れが、ぐう、と鳴った腹の虫と共にあたたかな空気に溶けだしていくような心地だ。
「わあ、美味しそう!」
麺類が好きだ、と言った覚えはないけれど、ラーメンやうどん、パスタを好んでよく食べていたからだろう。今日は非番だから、いっつもお仕事頑張ってる監視官サマに手料理の一つでも振舞っちゃおうかなあ、なんてウィンクを寄越した縢の誘いを有難く受け部屋を訪ねた常守の目の前で、ほかほかと湯気を立てる具だくさんのトマトソースのパスタが出来上がろうとしている。
「ちなみにこれはデザートのゼリーでーっす! 冷やしとくから食後、楽しみにしててよねっ朱ちゃん」
かちゃかちゃと鳴る調理器具は、まるで魔法のアイテムだ。そしてそれを軽々と扱う縢の手は、魔法の手に違いなかった。だって、こんなのまるで、お洒落なカフェにでも来たみたいだ。料理をしない常守にとって、見慣れない、そして調理後の姿と瞬時に結び付ける事も出来ない食材たちが次々と姿を変え、皿の上に並べられていく。ドミネーターで潜在犯を裁く彼の指先は、それでも今、常守を喜ばせるための数々の食事を生み出しているのだ。その手のごつごつとした関節、浮き上がる骨の形、それら全てがこうして優しい魔法を生み出していく。縢秀星は魔法使いなのだ、と、常守はぼんやりとそんなことを考えながら、ふんふんと楽しげに歌詞のないメロディを口ずさむ男を見つめていた。
や さ し い 両 手
常守朱は今、帰る人のいない部屋の入口、みっちりと文字の書きこまれた手帳を片手に立ち尽くしていた。
槙島聖護の一件に終止符が打たれたあの日から少しだけ時間が過ぎた。征陸の殉職、狡噛の逃亡と、宜野座の犯罪係数オーバー、そして逃亡犯縢秀星の捜索は完全に二係に引き継がれ、ばたばたとしていた一係が少しだけ平穏を取り戻したといってもいいだろう。忙しない日々をなんとか送っている常守の耳に、新たな執行官の部屋を用意する為、狡噛や征陸、そして縢の私室を業者が清掃し空き部屋にするという知らせが届いたのは、今朝のことだ。
それは、至極当然のことだった。
現に一係のオフィスにある個人のデスクは既に綺麗に片付けられてしまっている。
けれど、部屋は、彼らの帰るべき場所だったはずだ、と常守は思った。狡噛は自らの信念のために此処を出て行ってしまったけれど。それでも、共にくたくたになるまで仕事をして、時折食事をして、おやすみ、お疲れ様、また明日。そんな言葉を交えながら手を振って別れた彼らが帰る場所は、そこだったのに。それすらもう、明日には永遠に失われてしまうのだ。そう思うと、きゅっと心臓が縮んだような心地がした。
『朱ちゃんは案外不器用だよね』
からかうような声音が、今もふと蘇る。
一緒に作ってみるかと訊かれてうっかり頷いてしまったことを切っ掛けに、縢の城ともいえるアイランド型キッチンに並んで立ったのは、まだほんの数か月前の出来事だ。あーしてこーして、という実演を伴った説明を熱心にメモに取りながらのそれは、今思えばちょっとした料理教室のようだったと思う。
とんとんとん、とリズミカルに、更に大きさもほぼ均一に材料を刻む縢の隣で、不細工で形もバラバラにしか野菜を刻むことの出来なかった常守。その危なっかしい手つきに冷や冷やとしながらも、楽しそうにそう笑った縢の、キャラメル色の瞳。暖色の照明に照らされた、ラフなシャツの白さ。「料理は見た目も大事なの分かってる〜?」とちくりと棘を潜ませた悪戯な言葉たち。「分かってるよ」と少し不機嫌に返した常守を「ごめんごめん」と窘めながら、その時縢は、一体何を考えていたのだろうか。
これからもっと時間をかけてうんと料理が上達したら、一係の皆で食卓を囲みたかったなあ、と思う。
私も結構出来るようになったでしょ、と、ふんと鼻を鳴らして。説明の仕方が擬音ばかりで雑な料理の先生を見返してやろう、と。そう思っていた。それなのに、もういないのだ。もう会えないのだ。そう思うと、涙が出て来て止まらなくなる夜が、常守にはあった。ぎゅっと握った手帳の角が、やわらかな掌に食い込んで赤い痕を残す。
ぐっと息を詰めて踏み込んだ無人の部屋。落とされていた電気のスイッチを入れると、闇に呑みこまれていた室内に光が灯った。途端に静寂に包まれていた室内は、電気が通い息を吹き返した多くのゲーム機器により喧騒を取り戻す。
もうどれだけ待っても、この部屋に帰る人はいないのに。
まるで寂しさを掻き消すように、誤魔化すようにピコピコと電子音を響かせる機械を目の前に、常守は無造作に買って来た食材をキッチン台に並べた。それらはあの日、縢が使っていた材料たちだ。直伝のコツがびっしりと書かれたこの手帳。そして、何よりここにある魔法のアイテム。この三つがあれば、きっと自分でも美味しい食事が作れるはずだ。
常守はスーツの上着を脱いでカウンターの椅子に引っかけると、腕まくりをして手を洗った。勝手知ったるなんとやら、だ。どこに何が収納してあるのか思い出しながら、まな板や包丁、鍋などを取り出していく。
とん、とん……とん
たどたどしいリズムだった。拙い、小さな子供がでたらめに鍵盤を叩いたようなそれと共に、以前よりマシではあるけれど、とても綺麗だとか均一だとかそんな言葉では飾ることの出来ない食材が細かに刻まれていく。大鍋に沸かした湯が沸騰する隣で、常守はトマトの水煮缶を中くらいの大きさの鍋の中にぶちまけ、ごろりと存在感を放つトマトを潰しながら火にかけ、塩と水を入れてかき混ぜた。底が焦げ付かないように、火加減には最大限注意を払わなくてはならない。バランスのよい食事のためには、サラダも作らなくては。
「いただきます」
果たして、どれ程の時間が過ぎただろうか。
四苦八苦の末出来あがったのは、具だくさんのトマトソースのパスタだ。丁寧に、程よく茹だったパスタを盛りつけ、トマトソースを上からかける。そこに粉チーズをふりかけ、ちょっとしたサラダを添えれば完成だ。見た目にも美しい、文句のない一品だろう。
まあ、段取りが悪く時間がかなりかかってしまったし、ソースと共に煮込んだ具材の大きさも決して均等ではない、店にはとても出せないような代物なのだけれど。
常守は、いつも縢が腰かけていた黄色の横長のソファの真ん中に座って、しっかりと手を合わせた。そして、ぴかぴかに磨かれたスプーンとフォークを使い、くるくるとパスタを巻きつけて口に運ぶ。
材料も分量も、使用した調理器具も何一つ間違いはない。ただ、塩少々、だとか、こんなもんは目分量でがーっと、なんて言って適当に縢が入れた調味料なんかは再現できていないかもしれなかった。それでも、十分に食べられるものだ。美味しいと言って貰える自信だってある。数をこなせばきっと、もっと上達するはずだ。
だというのに、どうして。あんなにきらきらしていて、美味しい匂いと美味しい音で常守を幸福に導いてくれたこの部屋、手作りの食事達は、今こんなにも光を失ってしまっているのだろうか。そんなの、もう分かりきっている。
「おかしいな、このパスタ、しょっぱいよ、縢君」
常守を笑顔にしてくれた、やさしい両手の魔法使いはもういない。
調理器具を魔法のアイテムに変えていたあのやさしい魔法は、今はもう永遠に失われてしまった。眉を下げて、少しだけ困ったように、笑う声。彼の口ずさんだメロディも、もう聴こえない。朱ちゃん、そう呼ぶ声も、内緒話をするために寄せ合った肩の温もりも、きっといつか思い出せなくなってしまうのだろう。魔法はとけてしまったのだ。こうしてここに、常守を置き去りにして。
どうして。
喘ぐように切れ切れに呻いた常守を慰める手が、肩に添えられることはなかった。帰らない主の帰還を待ちわびる機械の電子音と共に、暫くの間、小さく啜り泣く声が響いていた。春はまだ遠い、二月の夜のことだった。
- end -
20140728
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