思い出すのは、湿気を吸い込んで少しだけ重たくなった、紙の感触だ。それを、同じようにどことなく湿っているような指先がなぞる。どんよりと曇った灰色の空と、びゅうびゅうと吹きつける風にがたがた揺れる窓枠。ガラス窓一枚、その頼りない薄っぺらな隔たりに守られた教室は、まるでそこだけ世界から切り取られてしまったようなのだった。
「それじゃあ希、気を付けて帰るのよ」
いつまでも冬を引きずるように寒かった春が過ぎて、比較的過ごしやすい気候である初夏の気配を、ようやく感じ始めた五月のこと。仲秋の季語であるはずの台風が上陸した。伝統ある(悪く云えば、老朽化の進んでいる)建物を有する国立音ノ木坂学院の校舎は、横殴りに叩きつける雨風にぎしぎしと不穏な音をたてている。一部の教室では窓の隙間から雨水が入り込み、窓のサッシに雑巾を詰めてはバケツに絞り、詰めては絞り、という終わりの見えない戦いが繰り広げられているようだ。
部活動等、本日は学校に残らずに生徒は速やかに下校すること。
担任教師から告げられた言葉通り、生徒会もスクールアイドルとしての活動もない放課後。進路相談の予約があるのでもう少しだけ学校に残るという友人、絢瀬絵里に見送られて、ひとり、昇降口へのんびりと歩く。
待っているから一緒に帰ろう。
本当はそう言いたかったけれど、えりちは大丈夫なん? と訊ねた希を安心させるように、あまり遅くなったり台風が酷くなるようなら迎えに来て貰うから大丈夫よ、と彼女が笑ったので、それなら安心やんな、と笑い返して、思わず言葉を飲み込んだ。
絵里の家には何度も遊びに行ったことがあるし、家族とも面識があった。少しばかり過保護なきらいがある彼女の家のこと。絵里が迎えに来てと電話の一本でもすれば、きっと校門の傍まですぐに車で駆けつけて来てくれることだろう。その方が自分と帰るよりもよほど濡れないし、安心だ。生真面目で優しい友人にとって良いと思える選択肢を、こうやっていつも希は無意識に選んでしまう。自分のことには無頓着なんだから。甘えるのが苦手よね。時折そう言葉にして友人たちに評される通り、東條希は誰かを頼ることが苦手な性分なのだった。
「はあ……」
暑くもないのに肌がべたついて気持ちが悪いので、制服のシャツを少し摘まんでぱたぱたと風を送ってみる。しかし送り込んだ風自体も多分に水分を含んでいるので、なんだか余計にじっとりとしてしまったような気がした。思わず溜息を一つ零してみれば、目的の昇降口はもう目と鼻の先だ。既にほぼがらんどうの校舎は静かで、激しい雨音と風が窓ガラスを叩く喧騒すら別世界から響いているように感じる。辿り着いた自分の下駄箱から革のローファーを取り出しながら数歩先に広がる校舎の外に視線を投げれば、少し先の景色が煙って霞んで見えた。雨のカーテンに覆われたこの建物から一歩でも踏み出せば、恐らく無事では済まないに違いない。傘なんてものが果たして、どれほど役に立つというのだろうか。こんな細くて頼りないのだから、強風に負けてぽっきり折れてしまうかもしれない。
びゅうん、と唸りを上げた生温い風が、長い髪をさらっていく。なんだか妙にふわふわとして、上履きを脱いだ足元が頼りない。凛ちゃんやほのかちゃんが一緒にいれば、大きな声をあげながらはしゃいで雨に濡れにいけるのになあ。既に下校しているであろう年下の友人たちの姿を思い浮かべながら、いつまでもこうしている訳にもいかないなあとローファーを履いたつま先でとんとんとタイルを叩く。そうして希は意を決して傘を広げ、外に飛び出した――否、飛び出そうとした。それを阻んだのは、耳慣れた声だ。聞いている人間など誰もいないだろうと無遠慮に悪態を吐く、よく知っている声。
「ちょっとぉ、ほんっとに信じられないんですけどぉ!! 何この風の音!」
「……にこっち?」
問いかけは確信に近かった。階段を駆け下り、急いで走ってきたのだろう。息を切らせて昇降口に姿を現した矢沢にこの姿を、振り向いた希の瞳は確かに捉える。兎耳フードのピンクのレインコートを身に纏ったにこもまた、今まさに下校しようとしている希に気付いて驚きの声をあげた。ぎゃあ、という可愛げのない声だ。どうしてまだ残ってたん、と訊ねようとして、なるほど、そういえば小テストの点数が悪かった一部の生徒は三十分程度ではあるが補習があったのだということに思い至る。にこは特別頭が悪い訳ではないのだけれど、どうにも古文が苦手なようだから、恐らくそれだろう。
「中間考査の前には勉強会しないとね」
「うっ」
居残っていた理由を瞬時に見抜かれたことで、居心地悪そうに呻く。咄嗟ににっこにっこにー、と笑って誤魔化そうとする様子を見た希は悪戯っ子のように笑って、うちとえりちでビシバシいくで、と宣言すれば、たちまちにこは、ひいぃ、と小さな悲鳴と共に青褪めた。
「あはは、にこっちは本当にかわいいなぁ」
「な、なによ! にこが可愛いのは当たり前でしょ!」
「うんうん、そうやね」
「むきーむかつく!」
くるくる変わる表情。ぴょんぴょんと身振り手振りを付けて怒る様子は、やっぱり可愛いと思う。兎というよりは小猿のようだけれど、流石にそれは怒らせてしまうだろうと心中に留めることにした。うーん、賢明な判断やねえ。のんびりとそんなことを思いながら、二人で並び立って外を窺う。すごい雨やねえ。そうね。でも帰るしかないねえ。そんな会話もそこそこに、びゅん。木の葉やらビニール袋やら、どこからか飛ばされてきたゴミまでもがものすごいスピードで飛んでいくのを見て、二人は思わず顔を見合わせた。
「ほんっと、信じらんないわ……なんなのよ、この風」
「夜には一度台風の目に入るらしいけど……」
「それまでここにいる訳にもいかないし、行くしかないわね」
共に戦場へ駆り出される兵士のような真剣さで、こくり、頷き合う。
「ほんなら突撃やね」
希は傘を。にこは傘だけでなくレインコートもしっかりと身に纏い、フードを深くかぶると同時に昇降口を飛び出した。目を開けていることが困難なほどに強い雨粒が、横殴りに体中を打ちつけてくる。危惧していた通り、瞬時に蝙蝠傘になってしまったそれをさすことを早々に諦めて、耳元で轟々と鳴り響く雨風に負けないように大きな声で励まし合いながらひたすらに走った。鞄の中の携帯電話や教科書が少しだけ心配になる。ローファーに雨水が染みて、ぐちゃぐちゃになってしまった靴下が不快だった。一歩足を踏み出す度に、濡れた感触が足元から這い上がってくるようだ。
「にこっち〜大丈夫?」
「なに? 聴こえない!!」
「だ〜い〜じょ〜ぶ〜!?」
「大丈夫なわけないじゃないの〜!」
「あはは!」
しかし、次第にその不快感を上回る楽しさに気付いて、希は息も切れ切れになりながら笑ってしまった。街中でこんなに大きな声を出しながら、ずぶ濡れになって、走っている。ちらりと振り向いたにこはフードもとれてしまっていて、自分と同じく風呂上りのように髪も、それどころか顔もびしょ濡れなのだ。俯き加減に進んできたけれど、少し視線を上げると、誰かの洗濯物なのだろう、Tシャツのようなものがひらひらと宙を舞っている。新しい発見、見なれない景色だらけだ。非日常の世界に迷い込んだようで、なんだかわくわくとした。台風は好きではなかったのだけれど、小さな子供のように胸が弾んでいるのが分かる。らしくもなく興奮しているのだと分かった。変なアドレナリンが出ているのではないかと心配にすらなってくる。
「うち、友達と台風の日に一緒にいるの、そういえばはじめてや」
しかし、ちょっと休憩、と滑り込んだビルの軒先でスカートを行儀悪く絞りながらぽつりと落とされた呟きは、そんな気持ちと裏腹にとても静かだった。希が灰色の空を見上げながら思い起こす自分の姿は、いつだって一人ぼっちだからだ。
仕事熱心だった両親。転勤ばかりで親しい友人もおらず、近所の人との付き合いも何もない日常。親を恨んだことはない。ラップのかけられた食事を一人で食べる自分の背中をさびしいものだとは思えど、二人が自分を愛してくれていることを、いつだって知っていたからだ。それでも、どうしようもなく不安になることはあった。自分が一人だということを浮き彫りにされる瞬間は殊更に強く。
「うちね、台風ってあんまり好きじゃないんよ」
思い出すのは、湿気を吸い込んで少しだけ重たくなった、紙の感触だ。それを、同じようにどことなく湿っているような指先がなぞる。どんよりと曇った灰色の空と、びゅうびゅうと吹きつける風にがたがた揺れる窓枠。小学生の時、暴風警報が出ると安全のために保護者が学校に迎えに来るまでは帰ることが出来ないようになっていたから、希はいつも最後まで学校に取り残された。学校によっては各自教室での待機、だったり、体育館に全校生徒が集まって待機、だったりと様々だったけれど、自分が最後であるということはどこへ転校しても変わらなかった。
先生さようなら。ばいばい、またね。飛び交う声をききながら手を引かれて嬉しそうに帰っていく同級生達の背中をひとつ、またひとつと見送る。寂しさを押し殺すように、没頭したふりをして本に向かう幼い自分の姿を愛おしいと、今なら思えた。淡々とページを捲る指先をやさしく握って、手を引いてくれる人が一向に迎えに来てくれなかったことが、悲しい、とも。それは確かに、小さな自分にとっては大事件だったし、不幸な出来事だったのだ。どんなに両親が自分を愛してくれていても、どんなに自分が愛していても、共に過ごす時間が少ないことや、待ち続けても中々現れない迎えというのは、まだまだ年端もいかぬ子どもにとっては大変なことだった。
「でも今は、にこっちといるから楽しいなあ」
暴風雨に閉ざされた校舎に取り残されながら、母の迎えをひたすらに待ち続けた、小さな自分。寂しくて、悲しくて、愛おしい子供は、きっとまだちくりと痛む胸の中にいる。けれどもう、あの湿気を吸った本の感触を覚えることはないのだろう。その証拠に、学校からは警報が発令されても生徒だけで帰れるようになった。雨の檻は希を校舎に縛り付けることはなくなったし、待つばかりの子供でもない。たとえ迎えが来なくても、傘がうまくさせなくても、落ち葉が制服に貼りついても、大きな声をあげて、全力で走ってずぶ濡れになってくれる友達がいる。
(台風が来るとわくわくするよね)
そう言っていたかつての同級生達の言葉をようやく理解出来たことで、何かに追い付けたような、そんな気がしたのだ。小さな自分が立つことの出来なかった場所、見ることの出来なかった景色に、長い時間を掛けてようやくたどり着いた。そう、とても穏やかな気持ちで思う。
「ふ、ふん、なによ。そんなのスーパーアイドルにこにーと一緒にいるんだから、当たり前じゃない! 天気なんて関係ないでしょ?」
「ふふ、そうやんな」
「本当にそう思ってるわけ?」
「もちろんやん?」
それならいいわ、と照れを誤魔化すように仏頂面をしたにこが呟く。そうして改めて互いの酷い姿をじっくりと眺めて、ぷっと噴き出すように笑い合った。貼りついた前髪から滴り落ちる水滴が頬を伝っていく。頭からつま先まで、濡れていないところなんてどこにもなかった。濡れ鼠ってこういうことをいうんやねえ、プール入った後と大差ないわね、と口々に感想を述べ終わると、名案が浮かんだとばかりにおもむろににこが手を叩く。
「希の家より私の家のが近いから寄っていきなさいよ。そんなみっともない格好で、スクールアイドルが街中をこれ以上歩くなんて許されないわ!」
「え!?」
ぴちょん。水の跳ねる音。そんな急に押しかけるなんて悪いやん、と咄嗟に首を横に振った希の手を、少しだけ強引に小さなにこの手が掴んだ。濡れた互いの手のひらは生温いはずなのに、じわりと染み込むように熱が全身を駆け巡る。
「今日は大鍋にいっぱいシチューを作る予定だから、一人分増えたってどうってことないわよ。夜には台風の目に入るんだし、それまで雨宿りしていきなさい」
気圧されるような勢いはなかった。ただ姉が妹に言い含めるような声音に思わずうんと頷くと、満足そうににこは笑う。笑って、ジャガイモの皮むき手伝いなさいよね、と言うや否や、そのまま再び雨の中へと二人は駆けだした。善は急げ!タイムイズマネーよ、と小さくガッツポーズをするにこが、力強く希の手を引いたからだ。心の準備もできていないのに風雨に曝される羽目になったけれど、不思議と普段なら口から出るであろう文句の一つも浮かんでは来なかった。目の前で揺れる、自分よりも低い位置にあるぐちゃぐちゃに乱れた黒髪のツインテール。それを眺めながら、どうしてか少しだけ涙が出そうになる。
「にこっちには敵わんなぁ」
まずはお風呂を沸かして、ここあ達の服も濡れてるだろうから洗濯機をその間にまわして、とぶつぶつと帰宅後の計画を練り始めたにこは、きっと振り返らないだろう。情けない自分の表情にどうか気付かないでと祈りながら、希は困ったように眉を下げて小さく微笑む。途中、追い抜かした子供達が、あめふりの歌を口ずさんでいた。あめあめ、ふれふれ、かあちゃんが。懐かしいフレーズと共に、なんだか切ない気持ちがこみ上げてくる。
本を読みながら、一人でずっと待っていた。窓の外を眺めながら、いつまでも迎えを待ち続けていた、小さな自分。遅くなってごめんね。そう言って教室にやってきた母の胸に飛び込んだ時のように、胸がいっぱいに満たされていることに気付いた。
(雨とお迎え)
- end -
20150611
やつめさんお誕生日おめでとうでした!
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