押し寄せる黒い闇は、いつだって私の足元を、まるで小波のように漂っていた。誘われるままに体を横たえる。泥濘に沈むように私を飲み込むそれは、それでもひどく優しかった。
嗚呼――
沈み切る直前、私はいつも手を伸ばす。引き上げてくれる人など、誰もいないと知っているのに。それでも、どろりとした闇から逃れて彷徨う指先は白く、降り注ぐ月色に染まる。淡く輝くその手は、唯一私の中で美しさを保っていた。
この指先まで呑まれたら全て終わるなと、私は無意識下の内にそう強く感じる。
それは、この辰巳ポートアイランドに引っ越してからパタリと見る事のなくなった、夢の話。
「っチ!」
もう随分と聞き慣れた声に、私は振り向いた。ふわりと視界の隅で捉えた自身の髪。その向こうで、伊織順平がいつもの人好きする笑みを浮かべている。今日の帰り、はがくれ行かねーか?そう続いた言葉に逡巡して、私は首を横に振った。ああ、なんてバッドタイミング!
「行きたい!!でも今日は生徒会が優先なんだ…」
「あーそっか。いそがし侍なのね」
「ま、また誘ってね!」
「へっ、たりめーだろ!」
じゅんぺー、と、廊下の向こうの声に順平は、おうと返事をしてる。じゃあな、それだけ言って、順平は廊下の向こうへ消えてしまった。
ぽつんと一人、それを見送る。
ゆかりも順平も、よく頑張るねと呆れ半分感心半分にいつも私に言う。放課後はテニス部、ファッション同好会、生徒会、委員会、友達と遊びにも行くし、エトセトラ、エトセトラ…。帰ったらなるべくすぐ勉強して、影時間はタルタロス。ぎゅうぎゅう詰めの、スケジュール。
頑張るのは良いけど、倒れたりしたら大変だから無理しないでねとゆかりは時折ひどく心配そうに私を見る。それは嬉しくも、居た堪れなくもあった。
別に、頑張ってる、なんて、思わない。ただ私はいつも何処か、何か希薄で、ふわふわとしていて、不安で、怖くて、寂しくて――。
だから、誰かが必要としてくれる限り、私はそれに全部応えたいと思う。誰かの役に立つ事で、此所にいていい理由が欲しい。誰かに、知っていてほしい。こんなにもどうしようもなくて、臆病で、弱虫な私のことを。
「じゃあ、またね」
「ああ、気をつけて」
小田桐くんと下駄箱で別れて見上げた空は、消えかかる炎を掻き集めたような、頼りない残照だった。自分の影が、夜の闇に融けて消えて行く。首にぶら下がるイヤホンをつけて、適当に再生ボタンを押す。これは、一つの逃げ道だった。一人を実感する瞬間に、私は私の思慮の海に溺れる。そのための手段。外界と自分を隔てる、弱々しい抵抗の証。
ポケットから携帯を取り出す。チカチカ、ランプの点滅がメール受信を告げる。こんなちっぽけな物でも誰かと繋がれるんだ。私はそのまま、携帯を開くことなく再びポケットに突っ込んだ。
流れ込んでくる軽快なメロディ。流れては、消えて行く。通り過ぎていく。
「―――、」
何がこんなに悲しいんだろう。こんなに苦しくて、こんなに辛くて、こんなに虚しいんだろう。
イヤホンの音量を上げる。心の中が、空っぽになっているような気がして、何故かそれがとても息苦しい。
誰も、助けてなんて、くれないのに。
それなのに、頭の中はいつも、たすけて、の4文字で埋め尽くされてる。
誰でもいい。なんだっていい。誰か、たすけて。
『次の停車駅は巌戸台ー、巌戸台ー』
そう思いながら、私はきっと明日も笑うんだろう。
想像するに難くない現実を思って、私は流れる町並みを車窓から見つめる。無機質な窓ガラスには、何故か泣き出しそうな自分がうつっていた。
- end -
20100115
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