遠回りして帰ろうか


ルルティマ・ララバイ

 身体が硬直してうまく動かなかった。目の前で広がる血の海に沈む指先
 それは、の頭を不器用に撫でた大きくて無骨な手のひらだった。

 何、これ――

 分かっている。けれど認める事を脳が、或いは心が拒む。
 知っている。はこの光景を知っている。赤に沈む手は、記憶の奥底の何かと確かに重なった。


「ぁ…荒垣、せんぱ」


 周りの皆が何か言っている声が聞こえない。ひどく緩慢な動作で私を見据えた荒垣先輩は、いつものぶっきらぼうな態度はどうしたんですかと笑ってしまいたくなる程に穏やかに、それから少しだけ寂しそうに困ったように笑った。
 微笑みを形作るその唇は色を失いはじめ、何か言葉を出そうと震えている。

 どうしてこんな事になっているのか訳が分からなかった。だって私と荒垣先輩は一緒にご飯を作った。作って貰って、一緒に食べて、それから沢山話をした。つい先日の夜だって、お前の時間を無駄にするなと言う先輩の意見をまるで無視して、一緒に話をした。先輩は夜食を作ってくれた。笑って、いた。


「ゲホッ…ゴホッ」


 咳き込む声。
 その時、金縛りにあったように硬直していた私の身体はその戒めを急速に振りほどき、彼の手を握った。
 はじめて触れるその手は温かくて大きい。荒れた皮膚のかさかさとした感触。両手で包めば、苦しげな呼吸を繰り返しながら、なんて面してんだ、と窘められた。

 誰のせいだと思っているんですか。どうして、先輩。
 貴方が居なくなったら私達はどうしたらいいんですか。天田君は。……真田先輩、は。



「泣くな…



 口の端からごぽり、彼を浸蝕するみたいにわき出る赤い色に背筋が凍り付く。
 これでいいと、そう言って倒れた荒垣先輩の身体を支えられずに反射的に手を放してしまう。触れていたはずの温もりは、遠い。

 はじめて呼ばれた下の名前は、彼が頑なに引き続けていたボーダーラインが最早役目を終えてしまったからだろうか。まだ一ヶ月。たった一ヶ月しか、過ごしていないのに。

 病院を、とか、影時間が、とか断片的な単語しか聞き取れなくて、ただ呆然と立ち尽くす。
 肩を震わせた風花に抱き締められてはじめて、私は自分が泣きじゃくっている事に気付いた。

 私は霞む視界の中で、すぐ傍らで俯いている赤いベストを見つめる。

 兄弟のような存在だと言っていたじゃないですか、ねえ、荒垣先輩
 貴方が、貴方まで居なくなったら、誰が真田先輩と一緒に走るんですか。少なくとも私は、無理ですよ。私は真田先輩みたいにハイペースじゃ走れませんから。だから、骨折しても痛みがなければ気付かずに突っ走りそうな彼を、誰が支えるんですか。
 私は、こんな事のために、先輩の傍にいますって、そう答えた訳じゃないんですよ。


「っ…」


 だめですね荒垣先輩、貴方がいて皆がいて、楽しく食卓を囲んで…そうじゃなきゃもう不自然なくらい、貴方の居場所は此所に溶け込んでたのに。なのに荒垣先輩はいつも咎人のような瞳をしていましたね。居心地悪そうに、いつも隅っこで私達のこと見守ってた。



「ど…して」


 涙で言葉が詰まる。
 許すとか許さないとか、そんな二択しかくれなかった荒垣先輩。俺を許さなくていいと静かに言った荒垣先輩。私の、何て事ない日常話しを聞きたがった荒垣先輩。
 私はただ、先輩の言葉を思い出して、一層悲しくなった。

- end -

20100416

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