怯えるように、真っ青な顔色で寮へ帰ってきたの姿に、何事か、と岳羽ゆかりは瞠目した。そして、どうしたの、と労りの言葉より先に、怒りの感情がじわじわと胸に広がっていく。この子にこんな表情させたのは、誰。許せない。
 常に笑顔を心掛けているのか、暗い顔など中々見せないリーダー。そんな彼女は、ゆかりにとって大切な親友であり、誇りでもあるのだ。ただ、時折その気丈さが、堪らなく歯がゆい。
 山岸風花は確か、彼女のことを月みたいだと言った。傷だらけなのに、決してその痛みを見せようとはしない。全て自らの胸に仕舞い込みながらも、私達を導いてくれようとするのだと。
 うまい喩えだ、とゆかりは思っている。風花は案外詩人なのかもしれない。本当に、はいつも、人の事ばかり。もっと寄り掛かってくれればいいのに。もっと、自分のことを話してくれればいいのに。そう思わずにはいられない危うさが、彼女にはあった。

 とにかく、今のは弱っている。笑顔を、空元気を取り繕うだけの余裕もない程に追い詰められ、取り乱している。そして、泣きそうな顔をしているのにも関わらず、泣くまいと必死になっている。
 そこまで状況を把握してしまえば、行動に移すことなどゆかりにとっては同左もないものだ。の手を引いて、自室へと招き入れる。階段を上る直前に、一体何事か、と声を掛けるタイミングを見失ったのか目を見張っていた伊織順平に、声を一つ。


「今日のタルタロス、なしだから」

「へいへい、真田サン達にはオレっちが伝えとくぜ」


 淡いパステル調のピンクで統一されたゆかりの部屋に、二人。小型の冷蔵庫から取り出したジュースを、ガラスのカップに注ぎ分ける。はい。ミニテーブルの上に差し出せば、は笑おうとして失敗したような、曖昧な表情を浮かべた。その目に滲むのは、悲しみなのか苦しみなのか。どうしたって彼女は、それを一粒も、零そうとはしないのだけれど。

 いっそのこと、泣いてしまえばいいのに、と、ゆかりは思う。屋久島で、激情に涙を流したゆかりの傍らにいてくれたのは、彼女だ。涙には鎮静効果があると言うのは、間違いではない。吐き出す事で、どれだけ楽になるだろう。も、そんなに苦しいなら、泣いてしまえばいいのに。そうしたら今度は、あたしが傍にいる。あたしが、吐き出したもの、受け止めるのに。


「…真田先輩」


 そう言えば、目に見えては動揺した。先程の順平の言葉にも小さく震えた。その震えは確かに、手を繋いでいたゆかりには伝わっていた。どうやら元凶は、真田先輩にあるらしい。そう確信したゆかりは、吊り上がりそうになる眉をなんとか抑えて、力を抜くように微笑む。いけない、今はあたしが怒ってる場合じゃない!なんとか言い聞かせるも、ひくりと痙攣した口元は隠しようもなかった。誤魔化すように、で、どうしたの、と、普段通りの調子で声を掛ける。彼女は困ったように、眉を下げた。


「ゆかり、ぃ…」


泣き出しそうに弱った声に、ぎゅう、とを抱きしめる。細い身体。それはゆかり自身と何ら変わりない、十七歳の女の子の身体だ。
 彼女の幼さを、どうしてもっとはやく、抱き締めてあげられなかったのだろうか。リーダーと言う責任を負った彼女の、甘えることがうまく出来ない彼女の不器用さを、弱さを、辛さを、見つけることが出来なかった自分を、ゆかりは罵倒した。甘えていたのだ。ずっと、彼女に。そしてそれはきっと、自分だけではない。ゆかりが知り得る以外の場所にも、彼女は沢山の人脈を持っているのである。
 だからこそ、ゆかりは自分を恥じた。あの暗い浜辺で自分を見つけてくれた彼女は、きっと本当は誰よりも、自分を見つけてほしかったに違いないのに。


、ごめん…あたし」


ゆかりの後悔に濡れた声が、静かな室内に、ぽつりと落ちた。



*




 新しく彼女が見せてくれた一面は、人間味溢れるエゴイズムに満ち溢れているとゆかりは思う。
 人を愛することが怖かったゆかり。けれどは違う。彼女は人を愛することを自身に赦さない。それはあくまでも、恋情と言う名のものであり、親愛や友愛は、全くもって別物であるという仮定の上で成り立つのであるけれど。彼女は、女としての幸福を自らに赦していないのだ。
 では何故あんなにも、自身を削ってでも他人のために行動を起こせるのか。それは酷く簡単であった。何度ゆかりが腹を立てても決して捨て身の姿勢を改める事が出来なかった――そもそも改めると言う言葉が適切であるか、ゆかりには分からない――。彼女は、自らよりも他人に重きを置く事によって、自己を保っている。誰かの力になれた、と言う事実で、自分自身を繋ぎ止めようとしているのだろう。そうしなくては居られないと、そう思っている。


「どうしよう、わたし…」


 そんな不安定な彼女が、どうやら恋をしたらしい。本人は、心の奥では納得しているようだけれど、理性や今までの生き方が彼女を許さない。 その甘ったるい感情に身を任せてしまえばいいのに。
 そう思うのだけれど、ゆかりはどうしても、目の前で目元を赤く腫らした彼女にそれを告げられないでいる。きっと真田先輩だって、おんなじ気持ちなのに。だってね、真田先輩があんな風に接するの、だけ、なんだよ。

 真田先輩の方に、しっかりしてもらうしかないのかな。

 ふ、とゆかりは溜め息を溢す。どうにも難関だ。順平にも、相談してみようか。思案に耽る。そして、ごめんねと溢した親友を、何言ってんのよ、と笑い飛ばした。





20100507