遠回りして帰ろうか


ふたりごはん

 じんわりと滲む汗をそのままに内輪で風を煽ると、幾ばくか体感温度が下がったのかうんざりとした気分はましになった。しかしこれから先、もっと暑くなることは分かりきっている。そうなったらもう、どれだけ煽ごうがこの気分は味わえないだろう。熱風をいたずらに掻き回すだけに終わるのが目に見えている。
 ここ巌戸台分寮は、最低限の空調はあるが、劇的に暖かかったり涼しかったり、ということはない。それは勿論桐条先輩がしっかりとその辺に目を光らせているからだろう。彼女は本当に他人にも自分にも厳しい人だ。真夏に寒いくらいクーラーを入れて毛布にくるまるなんてこと、きっとしたことがないに違いない。あの気持ちよさを知らないなんて少し勿体ないなとは思うけれど、環境にも家計にも自分自身の体のためにも、きちんと律することが出来るのはすごいことだ。ちなみにいうと、真田先輩もそういったことには非常に厳しい。クーラーや暖房を使うことによって外との気温差に体が逆に駄目になってしまうことは珍しくないし、先輩達二人が口を揃えて言う事は間違っていない。正論だ。正論なのは分かっているが、しかし、暑いものは暑いのだった。
 七月に入ってからというもの、この都会、所謂コンクリートジャングルに近づきつつある辰巳ポートアイランドは、暑い。海がある分その近辺は若干涼しいような気もするけれど。まだクーラーをつけなくても窓を開ければ夜はぐっすり眠れる程度の暑さだが、今がいるのは窓が云々という場所ではない。広く立派なキッチンだ。キッチンというのは案外、冷蔵庫やガスコンロといった熱を発するものが多い場所だ。そこで料理をすると、当然ながら体感温度は中々に高くなる。高校に入ってすぐ、ここに転校する前の学校にいた時はレストランでバイトをしたことがあるけれど、客のいるホールと違って厨房はまさしく地獄のように暑かった。真夏のランチタイムには優に四十度を超える程だった。まあ勿論設備も作る量も何もかもがレストランとは異なるので今いるこのキッチンがそこまで暑い訳はない。だが、軽い除湿程度で涼をとるのは中々難しかった。

「調理中はここ、結構暑いんだな」

 仰ぐのをやめて目の前の鍋を掻き回していると、古い扉をギイ、と鳴かせながら、真田先輩がキッチンへ入ってきた。そう、今日の暑さの原因は、実は真田先輩にあったりする。
 この間、またもやいつかのように女子生徒に捕まっていた先輩に、妙な言い方だが運悪く捕まってしまったことがあった。ああ、丁度良かった、一緒に帰ろう。ばっちりと目があった状態で、しかも心底安心したようにこちらへ速足にやってくる先輩を無視することが出来なくて、背中に突き刺さる女子生徒たちからの視線を受けながら帰ったのが、最初だ。礼になるか分からんが奢ってやるよ、と連れて行かれたはがくれ。なんだかズレた気遣いが、嬉しかった。一応心配してくれているんだ、と、そう思うと、妙に安心したのは記憶にまだ新しい。それを皮切りになんとなく月曜と金曜は先輩と一緒に放課後の時間を過ごすようになって、最近では苦手意識が少し薄れたような気がする。もともと何故か彼のことが気になっていたけれど、それとは関係なしに、先輩には妙にちぐはぐな、なんだかかみ合わないような違和感のようなものがあって、近づくことを必要以上に避けていたと思う。何か怖くて、急き立てられるようなざわめきをずっとずっと感じていた。桐条先輩もそうだけれど、私たちはどうして先輩たちが戦っているのかをよく知らない。桐条先輩は、これだけ桐条グループがタルタロス攻略に関与しているのだ、きっと家の問題が絡んでいるのだろうという事は予想が出来る。しかし、真田先輩はどうだ。彼は強くなるために戦っている。トレーニングのようなものだと、昔後悔したことがあるから戦っているのだと、それしか言わなかった。そりゃあ勿論、戦う理由を決意表明のように大っぴらにしなければいけない訳ではない。けれど、あまりにも不透明すぎた。順平のように特別な力に目覚めたから浮かれている訳でもない。しかし、果たしてこの世の中にどれだけ、強くなりたいからといって文字通り死闘に身を投じる高校生がいるというのか。理解が出来ない彼のことがなんとなく、そうだ、怖かったんだ、私は。この人いつか、死んでしまうんじゃあないかって。そして、もし強敵と戦うことになった時、命をぽんと投げ出してしまえるんじゃあないかって、心のどこかで思っていた。それが、たまらなく怖かったのだと、今なら分かる。私はこの人がいなくなることが怖いのだ。どうしてだかは分からないけれど、この人が傷つくところを見たくない。それだけは一貫して、避けている間ですら何故かずっと思っていた。祈りのように、それは高く清んだところから降る光のような優しさで。
 影時間以外で関わる彼は、天然なのかどこか的外れな、悪く言えば空気の読めない人ではあるけれど、面倒見のいい"先輩"だった。体力づくりや体調、色々な事を気遣ってくれたし、あまり参考にはならなさそうではあるけれどアドバイスをしてくれたり。そういった姿勢は私に当たり前のように好感を与えたし、きっと彼にとってもそうだ。私だってきっと、同様にいい"後輩"だったろう。
 生身の真田明彦という人は、その整った外見やクールな言動、学園の王子様、といった表面的な要素を持ちながらも、やはり血の通った人間で、泥臭い部分が多くあった。そして、どんなに優しい声音で私に接していても、彼はたった一人で生きている。そういう冷たさを持っている人だ。その冷たさは、私には心地のいいものだった。しんしんと、静かな寂しさが染み込んでいる。そういう孤独な気配に私が反応したのは、偶然ではないのかもしれない。本人から聞いた話だけれど、彼の両親もまた、亡くなっているのだ。そうして妹とたった二人放り出されて、挙句の果てにその妹さんまでも……。なんて、なんて不幸な人なのだろう。そしてその不幸は、肉親を全て亡くす、というだけではない。彼が、真田明彦が強くなりたいと思ってしまったことにあると私は思うのだ。だってもう、いないのに。家族はもういないのに、だ。死んでしまったから、還らないからもういないのに、喪った痛みを今も尚手放せずにいる。きっと彼は、心のどこかでしがみついているんだろう。確かにあった家族というものが年を重ねたらあっという間に減っていって、いなくなって、そして自分だけがここにいる。その孤独を強く感じた時、孤独であり続けることを敢えて選び取ったこの人の弱さ、そして強さに、私は惹かれているのだ。

「孤児院は決して裕福じゃあなくてな、晩飯にはよく、カレーが出たよ。にんじんとかジャガイモがでかいままごろごろ入っていて、はは、でも、美味かったな」

 何度目かの帰り道にした、好きな食べ物の話。彼の生い立ちを教えてもらって少ししてからのことだ。当時を懐かしむように優しく細められた先輩の目は、もうどこにもない場所を遠くに見ているそれだった。単純な私がカレーを手作りして振舞うことを提案するのは、何故かもう決まっていることのようにも思えるくらい自然な流れだったろう。少し驚きながらも笑った先輩も同じくらい。
 そういう訳で今、目の前にはぐつぐつと鍋が火にかけられている。ごろごろ野菜が入っているカレーは食べにくそうなので一口サイズにカットさせて貰ったけれど、これはこれで美味しいはずだ。きちんと鶏がらでスープを取ったのだから。暑い暑い、先輩が入ってきて人口密度が増したから余計に暑い。そんなことを考えながら、私はわくわくとしていた。おかずをちょっとあげるくらいはしていたが、メイン料理としてどんと誰かに振舞うのはこの寮に来てからは始めてだ。何か手伝うことはあるのか?とそわそわしている真田先輩にサラダ用のレタスを毟ってもらいながら、ピーと炊飯器が鳴る音が響く。特別に会話がある訳ではなかったけれど、決して嫌な沈黙ではなかった。穏やかな時間がゆっくりと流れていく。
 ああ、私はこの人が、大切なんだなあ。
 すとん、それは幕のように落ちてきた。初めはただ苦手だった。けれどずっと、無意識に意識していた。どうしてか私は、この人に甘えてしまう。それは時折今も感じるタルタロスでの視線と関係があるのだろうということは分かっていた。そうでなければ、説明できないことが沢山あるからだ。ほぼ初対面であった時も、どうしてか私は追い詰められたときこの人の部屋へ逃げ込もうとした。安心できる場所を、心が覚えているのと同じように。魂の記憶、という言葉が、こんなにもしっくりくることは早々ないだろう。不思議なことがありすぎて、もうすっかりと私の心は色々なことをいっぺんに受け入れられるようになっていた。そう、きっとこれも、そうなるべくしてなったのだ。私は運命論を信じている訳ではないが、人生の選択肢、なんてきっとないのだと不意にトマトのヘタを取りながら思った。白熱灯の光に翳したミニトマトがきらりと光る。それを眩しそうに見つめる真田先輩の横顔に掛かる影が、彼の顔の造形をよりはっきりと浮き上がらせた。
 私たちはきっともう選んでしまっている。その時目にした、闇の中に浮かぶ白い一本道をただひたすらに。選択肢はきっと、そう多くはないのだろう。運命は川の流れのようだ。その言葉が今ならなんとなく分かるような気がする。本流を変える力など、一介の人間が持っていていいものではない。私はもう、自ら選んで、流れ始めてしまっているのだ。この流れに逆らう術を私は持たないし、そんなものは知らない。その時不意に、目の前を青い蝶が横切った気がした。同時に胸を締め付けるような強烈な切なさがこみ上げてくる。知っている痛みだ。誰よりも、誰よりも知っている。深い悲しみの記憶。この街に戻ってきた四月のあの日も感じた。モノレールで、なんだか酷く疲れて転寝をしてしまった時だ。三カ月も前のことなのに、はっきりと思い出せる。
 これはきっと、いつか私が味わう痛みなのだろう。
 は深く息を吐いて、未だトマトをぼんやりと見つめている真田をちらりと見やった。彼の鷲色の瞳が赤いトマトの色彩が反射して、さそり座の心臓にあたる星、アンタレスのように、きらりと光っていた。

- end -

20131205

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