遠回りして帰ろうか


生命力

 お金の節約のために、時間があるときは前日の夜の内に下ごしらえをして、次の日の朝簡単に弁当を作るようにし始めた。此処へ越してきてすぐには、どうしても環境の変化や人間関係、そして何よりの原因であるタルタロスに疲れ果ててしまってそれどころではなかったが、人間の適応力というのか、自身の図太さというのか、段々と"そういう風"に身体が慣れてきてしまったようだ。もともと要領が悪い訳ではなかったので、余計にかもしれない。
 毎月限られた金銭の中で全てを賄うのは案外大変で、遊びにも行きたいし、洋服も、靴も、アクセサリーだって欲しい年頃だ。お金はいくらあっても足らない。なので、手帳のメモのページに簡易の家計簿をつけ始めたことが、昼食代金節約のそもそもの始まりだった。元来物欲はそうそうない方なので、パッと見て欲しい!と思う衝動を一旦冷静になって抑えることは簡単だ。しかし、一月の出費を明らかに圧迫している、しかも生きている以上どうしようもない出費――食費の多さには驚いた。部活帰りや、下校時、そのまま商店街で食事をして帰ることは珍しくない。ちょっと高いなあと思いながらカフェにだって行くし、行ったらケーキを食べてしまったりもする。寮母がいて食事がついていたらまた違っただろうが、巌戸台分寮は衣食住の内、住しか満たしてくれないところであった。朝は適当に買ってあるパンや、ヨーグルトといったもので簡単に済ませられるとしても、昼は学食か売店に頼る他ない。チョココロネや焼きそばパン、パックのお茶やジュースを買ったとして、昼食一度につき500円。それが月曜から土曜の週に六日間あって、一ヶ月――四週間としたらどうだろう。これは非常に大きな出費だ。タルタロスでいくら金銭を拾うことが出来たとしても、それは殆ど武器や防具、傷薬などの必需品の買い出しで消えていく。入寮と同時に何故か部屋の所持品に混ざっていた億近くの大金は何かの時のため、SEESで使えるように管理しているので、それをプライベートに使い込むことは出来ない。単純に私利私欲のために手を付けるのが恐ろしい、というのもあるが、ペルソナ全書からペルソナを引き出すのに請求される多額の資金はそこからこっそり出させてもらっているからこれ以上どうこうするのは気が引けるのだ。
 ああ、これ、見直さなくちゃだめだ。
 は手帳を片手に打ちのめされたような気持になった。疲労や手間暇を惜しんで外食ばかりしていたツケだろうか。そういえば最近肌が荒れてきたような気がする。ストレスのせいかな、とも思ったが、体は正直に生活習慣の乱れに反応するものなのだ。真田先輩じゃあないが、若いからといって自身のケアを忘れるようではいけない。兎に角、その時からは自分の中でルールを決めることにした。まず、一人での外食は避ける事。それから、なるべくスーパーのチラシをチェックすること、だ。

 と、いうわけで、最近はちょくちょくとスーパーに立ち寄るようになった。エコバックと財布を手に寮から出ていくを見て順平は「なんか主婦みてーだな」と笑ったけれど、いわれてみればまあ、確かに否定が出来ないので、何かあっても作ってあげないからねー、ってか分けてもあげないかんね!と舌を出すだけにした。というのも、実はそう悪い気がしていないからだ。
 昔は母親の買い物にひっついて、よくスーパーへ足を運んだものだ。大型の綺麗なところから、本当に個人がひっそりと、けれど活気溢れた様子で営業している小さなところまで、その日、その時々欲しい物によって行く店を変えた。やっぱり小さい時は大きくて綺麗な大型ショッピングモールの中にあるスーパー(生鮮食品売り場)の方が好きだったけれど、今この歳になって、実際に自分が財布を出して買い物をする立場になると小さな店の良さが理解できる。確かに、きらきらと輝く宝石のようなジャムやプリザーブの瓶が高くまで積み上げられている光景は、なにか幼心に憧れにも似た気持ちを抱かせるものだった。品ぞろえも万遍なく、一通りの物は揃えられる。けれどこの、古い建物やちょっとした街並みが今も保全されている巌戸台の、少し下町っぽいところ。親しみを感じさせる商店が好きだと今は思う。農業組合から仕入れた野菜はどれも瑞々しくて、お店の人も親切だ。最近は顔を覚えてくれたらしく、自炊と、それに伴って弁当を作っていると世間話程度のつもりで話したら、ミニトマトをおまけしてくれた。無気力症や、影時間といった「死」を重く含んだ空気を孕んだこの街で、けれど、そこはいつでも生命力に溢れている。人と人との繋がりが力になる、というのは、案外こういうことなのかもしれない。こういった商店は、確かに近所の人間の集まる一つのコミュニティの場所で、それゆえに色々な人が、幸せを感じるような各々の家庭から無意識に持ってきたあたたかいものを、与えてくれるようだ。
 毎晩濃厚に漂う、深い死の気配。それを感じ取ることに、次第に感覚がマヒしてきてしまった。両親が死んでからいつからだったか、不意に影時間を体感するようになって、もう何年だろう。それはいつも、同じように繰り返しそこにあった。寄り添う影と同じだ。そしてそれは、ペルソナ能力に目覚めて、体を張って戦うようになってからより濃度を増した。タルタロスから感じる、底冷えするような死の気配を、私の体はいつの間にか受け入れ始めている。現に、今の自分は桁違いに強い。最初からそうだった。何故だろう、何故か適応している。みんなの体力がどんどんとあの重苦しい空気に奪われていく中であっても、そうそう疲れることはないのだ。それに関してはきっと、記憶にないペルソナが記されたあのペルソナ全書や、テオドアの話――"平行世界の私"が関与しているのではないかと思っている。
 だからだろう。そういった非日常に身を置いているせいか、そんな所帯じみた自分が少し嬉しい。主婦みたい。そう形容される、本当に普通な自分。生命力の、活気の、元気な人の声の中で、瓶詰のジャムよりも輝くトマトを選ぶ自分。そういうのが好きだな。

「また来てねーまいどー!」

 元気いっぱいなおばさんの声に背中を押されながら、帰路につく。今日は豆腐をおまけしてもらったから、お味噌汁を作ろう。沢山作った方が食材の味が出て美味しくなるから、大目に作ろう。気が向いたら順平にも食べさせてあげたっていいし、どうせ今日も牛丼を買ってくるであろう真田先輩も、味噌汁なら飲むはずだ。ゆかりは部活が終わった後、食べて帰ってきてしまうんだろうか。風花は、桐条先輩は……?
 エコバックは重たいのに、妙に足取りが軽やかなことには気が付いて、それからふと、なんだか心が丸く、優しい気持ちになっていることに気が付いた。毎日こうあることができたなら――。目を細めて微笑う。今だけでもいいから。
 夏が近づいて、まだ高い位置にある陽光に照らされながら、なんだか影時間のある現実が急に遠い出来事のように感じた。眩い西日の中で小さく鼻歌を歌いながら歩くの足元には、濃く長い影が声を潜めたように、けれどしっかりと存在するのだった。

- end -

20131204

Clap! 誤字脱字・感想などなにかありましたらどうぞ