今日、俺に付き合わないか、と昼休みに真田先輩からお誘いを受けたので、その場でなんとなくOKしてしまったのだけど、胸に突っ掛かるものがあった。
なんだろうな、思い出せないと気持ち悪いよ、と心の中でぼやきながら江古田先生の長ったらしい説教――日本の言葉の美しさから、現代の若者の発言、そして結果的に説教に脱線した――を聞き流しながら考えたのがついさっき。
先輩が居るという部室棟周辺へ向かうべく廊下に出て、じゃあ行きましょうかと玄関前まで来て、私は漸く、引っ掛かって居た内容を思い出した。しまった、そうだ、今日は、月曜日で…だから。
下駄箱から取り出した靴を足元にぽんと放る。その雑な行動に、先輩が、どうかしたのかと首を傾げたものだから、私はダメもとで彼にお願いしてみた。
「先輩、トレーニングがてら、長鳴神社まで走りましょう!」
「あ?ああ…構わないが、」
「で、遊びましょう!!」
「…は?」
遊ぶって、俺とお前がか?それも、神社で?
訳が分からんと目を丸くする先輩に、取り敢えず走りましょうと提案しつつ靴を履く。とんとんと爪先を軽く叩いてきちんと靴が足に馴染むのを確認すると、私は先輩の腕を引っ張った。
真田先輩の存在に釣られてわらわらと集まりつつあった女子生徒の視線を背中に、未だに頭から?マークを飛ばす先輩と、月光館学園から足早に立ち去ったのである。
*
神社へ続く石段を一気に駆け上がる。負けず嫌いらしい先輩との距離はぐんぐんと伸びて行く。
流石、トレーニングトレーニングと煩いもんなと苦笑を漏らして見れば、一足先に上り終えて居た先輩の背中が見えた。赤い背中。逞しくて大きなその背中に背負ってるものを、彼は少し私に見せてくれた。そして、甘えだな、と、力なく笑っていたあの日の事を思い出す。
もう何度も彼と出掛けているけれど、私の中にあった苦手なイメージは殆ど無くなって居た。それは、きっと彼はこう云う人だという妙な印象が、全く持って当て嵌まらなかったからだ。
確かに好戦的だけれど、それは戦いが楽しいからという理由ではなかった。意外と子供っぽくて、予想外な失敗もする。女の子相手にやたら食べ物屋――しかも高カロリーのものばかり――に連れて行くのも、体を鍛える事を重要視してる彼なりの気遣いだと言う事が分かってるから、だから私は誘われればそれに応じるのだ。
どうしようもなく真面目で頑固だけれど、優しい人だと思う。
「はっ、はぁ、先輩…速っ」
「はぁ、はぁ…これくらい、当然、だ」
額に滲んだ汗を手の甲で拭う。結構体力がついて来たんじゃないか?と笑う先輩に、一応運動部員ですからと笑い返した。
それから私は、境内をぐるりと見回す。そこに見つけた女の子、舞子の姿に胸を撫で下ろした。泣きそうな顔をしている。良かった、一人にしなくて――。
「舞子ちゃん!」
「!!お、お姉ちゃんっ」
名前を呼んで手を振ると、べそをかいた舞子が走り寄って来る。どん、とぶつかってきた小さな体を抱き締めて頭を撫でれば、涙に声を詰まらせて噎せてしまったようだ。その背中をそっと擦る。
お父さんと、お母さんが…途切れ途切れに聞こえる言葉に、また理不尽に大人に傷つけられた事を知って、胸が苦しくなった。
優しい大人を、私はあまり知らないからかもしれない。沙織に対する江古田先生の態度と言い、舞子の両親と言い、年を重ねると人の事を思いやれなくなるのかと、静かな怒りが沸き上がる。
「、知り合いか?」
走り寄る途中に舞子が放り捨てた赤いランドセルを律義に拾って来た先輩が言った。ああ、いけないな。私が感情的になったら、それこそ舞子ちゃんが悲しい思いをするだろう。だってこの子は両親が大好きなのだ。
だから私はそれに対して真面目な顔でキリリと頷いた。
「妹です」
「…妹が、いたのか?」
「や、血は繋がってないですけど」
ね、舞子ちゃん?
腕の中の舞子は、ぶんぶんと首を縦に振る。真に受けた先輩がなんだかおかしい。私の家庭事情なんて、ゆかり同様書面で確認しただろうに。
「今日はお兄さんも一緒に遊んでくれるって」
「本当!?」
いきなり話しをふられた彼は、な、と驚きに固まってしまったようだ。お願いしますと口パクで伝えれば、あ、ああ、そうだな!とぎこちない返事。彼が子供が嫌いではない事はこの間、ワイルダックバーガーに行った時に聞いた事だ。
もしかしたら、と思ったけれど、きちんと頷いてくれた事にホッとする。
目を輝かせて、じゃあまずは色鬼するとはしゃぎ出した舞子を見て、私は先輩にこっそり耳打ちした。
「海牛奢ります」
「ばか、後輩に奢らせられるか」
*
日が沈み始めたので、舞子を家の近くまで送った帰り道。今から商店街に寄って、夕食を食べることになった。海牛かはがくれか、と云った所だろうか。わかつでバランス定食も良いかもしれない。
そう思いながら、隣りを歩く先輩を見上げる。そして、私は内心ぎくりとした。
なんと言えば良いのだろうか。先輩の表情は、見た事もないくらい、何処となく虚ろで、遠い場所を見ている。それは過去を懐かしんでいるようにも、未だに苦しんでいるようにも見えた。
"妹も、もういない"
頭の中で蘇る、彼の言葉。もしかしたら、辛い事を思い出させただろうか。そんなつもりではなかったのに。
自分の軽薄さに、嫌気がさす。
「先輩、今日は突然、ごめんなさい」
「なんだ、俺は結構楽しかったぞ?それに、なかなか良いトレーニングになった」
ハハ、と笑う先輩は、また誘ってくれと言って私の頭をぽんと撫でる。されるがままになりながら、この人、頭を撫でるの癖なのかなとか、どうでもいい事をぼんやりと思った。
「先輩、舞子ちゃんに大人気でしたね」
色鬼で、赤!と言った時、滑り台や鉄棒、鳥居といったものではなく真っ先に真田先輩のベストに引っ付いていった少女を思い出して、私は笑う。お兄ちゃんお兄ちゃんと、すごい懐きように、少し嫉妬してしまいそうだった。
そんな舞子ちゃんを、優しく宥める先輩。それは、私まで心が穏やかになるような微笑みだった。それ程までに、真田先輩の舞子ちゃんへの接し方は丁寧で、説明してはいないのに、まるであの子が家庭事情に振り回されている事を分かっているかのようだった。
てっきり嫌がるかと思いました。そう言えば先輩は、心外だな、とわざとらしく肩を竦める。そして、からかうように、にっと口端を持ち上げた。
「知らなかったのか?俺は困ってたり、助けを求めている相手は放っておけない人間なんだぞ」
「ファンクラブの子をことごとく無視する先輩がそんなこと言うなんて!あはは、知りませんでした」
「あのな、あれは逆に、俺が助けてほしいくらいだ」
全く…。呟いて顔をしかめる先輩の横顔は、夕陽に照らされてとても綺麗だ。眉間に寄った皺がなければ完璧だけど、寄せさせてしまったのは自分なのだから仕方がない。ちらほらといる月高の生徒が、そんな先輩を見ていた。もう商店街は、目と鼻の先だ。
「ねえ、真田先輩」
「なんだ?」
「私がもし助けてって言ったら、先輩、助けてくれますか?」
数歩、彼よりも先に進んで、くるりと振り返る。ぽかんとした表情を私に向けた先輩は、そういう風には見えないがな、と呟いた。
「何かあったのか?」
「…、冗談ですよ。さ、行きましょ?お店が混むと面倒です。私、お腹が瀬死なんですよ!」
なんだそれはと、彼が笑う。私は、自分で自分が口にした事が信じられなかった。助けてほしい、なんて、まさかこの人に求めるなんて。
先輩なら傷つかずに、私のことを受け止めてくれるんじゃないか、なんて。
- end -
20100205
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