桐条家の別荘は、とてもすごい造りをしていた。深夜、影時間が明けた頃、眠れずには用意された部屋を出る。うろうろと長い廊下を彷徨って、広いバルコニーへと辿り着いた。
ガラス張りの扉。それをそっと押して開けば、海の方から塩気を含んだ生温い風が吹き抜ける。
月が、凪いだ空にゆうらりとたゆたっていた。波の音に耳を傾ける。はただぼんやりと、真っ黒く果ての見えない闇を内包した海の向こう側を見ていた。月明りに反射してキラキラと輝く真っ白い砂浜が、浮き上がるように見えた。
昼間は人が多くいたけれど、流石にこんな時間、浜辺に人影は見当たらない。ゆっくりと、あのさらりとした心地良い砂に足跡を残しながら歩いてみようか。そんな考えが浮かぶも、流石に無断で別荘を抜け出す事は憚られる。セキュリティに引っ掛かりそうだと苦笑して、思い止どめる事にした。
ザァ…ン
優しい波の音。生命の全ての源は海だといわれているけれど、実際にその源たる海に私達人は嫌われている。私達は陸上でしか生きてはいけないのだから、おかしな話だ。
命の母は、人を突き放している。それなのに何故、こんなにも小波の音は心地よく響くのだろう。
手摺に前のめりに体重をかけて、は月を見上げる。影時間の月は不気味だけれど、こんな月なら悪くはない。
いつからそう思えるようになったのか。幼い頃のは正直に言うならば月が大嫌いだった。
傍で照らしてくれている、などと云うロマンチックな考えはさっぱり浮かばない。ただ、独りぼっちで膝を抱える惨めな姿を晒されているようで、明るい月夜は特に嫌いだった。どうせなら暗闇に紛れて消えてしまいたいとすら、考えてしまう程に。触れられない温もり程残酷なものはないと、そう思うから。
「………ふ、」
小さく息を吐き出す。バカンスと呼ぶにはあまりにも、あまりな屋久島旅行。昨晩のゆかりの叫びを、は思い出す。
分かったような顔をしないでとゆかりは言った。それは、当然だと思う。はゆかりの気持ちなんて分からないし、逆に言うならば、ゆかりにも、誰にだっての気持ちなど分かるはずもない。はゆかりではない。単純な理由ではないか。
例え同じ過去を抱えていたとしても、捉え方一つで感情の差異などいくらでも出て来るものだ。
そんな冷め切った自分を感じながらも、はあの時、「私にはゆかりが必要だ」と言った。嘘偽りはない。ゆかりは、大切な友達だから。
ただ同時に、順平と云いゆかりと言い、誰かにこんなにも自分自身の感情をぶつける事が出来る二人がひどく羨ましく思えた。
どう伝えたらいいのか、そもそも伝えても許されることなのか、そこから分からない。自分の感情を抑え込み過ぎると、は決まって体調を崩した。なんて不健康なんだろうとは思うけれど、きっと今さらどうにもならない。ストレスには強いけれど、限界までそれをさらけ出したり、そんな勇気は持ち合わせていなかった。自分の中の我が儘とか怒りとか、何処までなら、どの程度なら、他人に見せても赦されるだろうか。どれ位なら、傷付けずに、受け止めて貰えるだろうか。
傷ついて欲しくない、なんて、多分ただの綺麗事だ。自分の感情をぶつけて誰かを傷付けて、それを見て自分が傷付くのが怖いだけ。本当に、とんだ臆病者。独りになる事が、とてもこわい。
はそっと砂浜を見る。白く輝く砂浜。海岸線は、ずうっと向こうまで続いているに違いない。それでも一定より先の浜は闇に飲まれていて、見る事が出来なかった。
まるで今の私達の道のりみたい。
は思う。砕けたガラスの破片で構成されたような真っ白い砂浜を、足をとられ傷つきながらも走っている。全ての大型シャドウを倒せばいいと幾月さんは言うけれど、影時間をなくした先に何が待っているのだろう。そして、辿り着くまでの道のりで、どれ程の傷を負うのだろう。
ザァ、ン
波の音はただ穏やかで、何も応えない。月の光を反射して揺らぐ海面が綺麗だと、ただそう思った。
- end -
20100216
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