遠回りして帰ろうか


トマトの思い出

 夕方、忙しない蝉の声をBGMに、ロードワークを終えた真田は巌戸台分寮へ帰って来た。

 暑いけれど、気温が高い方が体の動きがいいな…。

 タオルでぐい、と無造作に額を拭う。部屋に戻って、シャワーを浴びたい。そう思い寮の玄関へ続く数段の階段に足を掛けて、見慣れないものがある事に気付いた。
 灰色に青を混ぜたような、綺麗なのか汚いのか分からない色のプランター。そのプランターには、当然だが植物が植えられている。花などにはさっぱりと精通していない真田だが、その、真直ぐに伸びた植物の葉からちらりと覗く赤い実が分からない程疎くはなかった。

 ミニトマト、か。一体誰が…山岸あたりか?

 そう思いながら屈み込む。乾燥してはいるが、柔らかそうな土。そこに刺さっている名前カードに気付いて、真田はその文字を目で追った。


 ――舞子


 どこか聞き覚えのある名前だが、この寮には勿論、舞子、と言う名前に該当する人物は存在しない。記憶を引っ張り出して、ああ、と思い当たったのは、神社で一度、遊んだことのある女の子だ。
 を、本当の姉のように慕っている女の子。ランドセルを背負った小さな背中を思い出す。
 自分にも短時間でよく懐いてくれた。お兄ちゃん、と快活に笑う声。

 そして次の瞬間、頭の中でもう一度再生された、おにいちゃん、と言う声は、けれど、舞子のものではなかった。


*


「おにいちゃん」


 美紀も、妹も確か、トマトを育てていた事があった。俺もシンジも小学生になって、日中は孤児院で独りぼっちになる妹。不安そうに先生の後を着いて回るしか出来ない美紀。そんな妹が心配で、たとえ学校で友達に誘われても、俺もシンジも残って遊ぶ事はなく、真直ぐに施設へ帰っていた。それを不憫に思ったのだろうか、先生が美紀に、薄汚れたプランターと、ミニトマトの苗をプレゼントしてくれたのだ。
 このトマトには美紀ちゃんしかいないのだから、大切に育ててね。その言葉に美紀は何度となく頷き、俺とシンジが学校へ出掛ける時にはいつも、水で一杯になったジョウロと共に外まで見送りをしてくれた。


「おにいちゃん、見て!」


 トマトの成長を、誇らしげに報告してきた美紀。実がつけば、それはもう大騒ぎだ。
 肥料にまでは先生も気が回らなかったらしく、美紀のトマトはひょろりとしていたけれど、重そうに実ったトマトが次第に赤く色付いた夏の日。シンジとキャッチボールをしていた昼の事だった。美紀は、色付いたトマトをその小さな手に四つ乗せて、走り寄って来た。


「おにいちゃん、シンジちゃん、見て!!」


 頬を真っ赤にして、美紀が笑う。美紀もトマトみたいだ、そう思ったけれど、言うと嫌がるだろうからやめておいた。
 シンジはミットを外した手で美紀の頭を撫でる。嬉しそうに目を細めた美紀は、俺とシンジの手の上に一つずつ、それを乗せたのだ。


「あのね、おにいちゃんとシンジちゃんには、一番きれいなの、あげる」


 もう一個は、先生にあげると意気込む美紀。ありがとうと言えば照れたように首を振る。それから、人差し指と親指でそっと摘んだトマトを太陽に翳した美紀は、まぶしい、と言いながら、俺とシンジになんと言っただろう。そうだ、確か、


「ねぇ、まるで―――」



*




 ガチャ、扉が開く音にハッとして顔を上げれば、が驚いたように小さく声を上げた。何故か片手に、水の入ったペットボトルを持っている。それから、屈んだ真田の視線の先にあるトマトを見て、ああ、と何か納得をしたようだ。


「先輩、お帰りなさい」

「あ、ああ」

「それ、邪魔でした?」


 それとはトマトの事だろう。
 未だ過去の回想をしていた名残かぼんやりする。否定すると同時に頭を振って、その尾を断ち切ろうと試みた。
 それには、よかったと微笑んで、真田の隣りに同じように屈み込む。
 そして、暫くお母さんの実家に帰省するから、その間の水やりを頼まれたんですよ、と教えてくれた。舞子ちゃん、覚えてますか?
 頷けば、は嬉しそうに笑った。

 それから、は手を伸ばして葉を柔らかく押し退ける。露になった根元に、手にしていたペットボトルを、蓋を外さずに傾けた。錐で穴を空けた手作りジョウロですと、何処か誇らしげにボトルの腹をグッと押す。土に染み込み切れなくなった水がプランターの下からそのまま流れ出て、真田との靴を微かに濡らしたけれど、互いに何も言わなかった。


「………」

「………」


 奇妙な沈黙のなか、ボトルの中身が四分の一程になった頃、よし、と一つ頷いたがそれを足元に置くのを真田はぼんやりと目で追う。
 は真田に視線を向けると、唐突に口を開いた。


「真田先輩はトマトは好きですか?」

「嫌いではないな」

「じゃあ、二つ貰いましょう」


 突然の質問に、咄嗟に口をついた本音。というか、苦手な奴は苦手だが、トマトが大好物な奴などいるのだろうか。サラダとして出されれば食べるが、好きかと言われたらそうでもない。つまり、美味しいとか美味しくないとか言った対象に、今までトマトを含んだ事がなかったようにも思う。

 そんな真田を気にする事なく、は熟れたトマトの粒を二つ、丁寧にもぎ取る。 手のひらでころりと半回転したそれを、残っていたペットボトルの水を掛けて無造作に洗うと、はいどうぞ、と真田の手のひらへ乗せた。


「おい、いいのか!?」

「預かるお礼に、実がなったら食べてねって言われましたから」

「だからって、俺まで貰う訳にはいかないだろう」


 一応言っておくが、食べたくてトマトを見ていた訳じゃないぞ。
 そう言ってトマトを返そうとするけど、は受け取らない。視線はトマトに向けたまま、儚さすら感じる笑みを浮かべている。


「食べて、その感想が欲しいんですよ。美味しいって、褒めて貰えたら、嬉しいですから」


 そして、パクリと口の中へトマトを放り込んだ。うん、甘くて美味しい。唇をぺろりと舐める。
 しかし、と戸惑う真田の手の上のトマトが、ころり、また転がる。水滴の残る、赤い実。それは、高度を徐々に下げている太陽の光にきらりと輝いた。


「あ、先輩、ほら…まるで、」





 まるで、宝石みたいでしょう?




 声が、遠い記憶と重なる。
 驚いてを見れば、彼女はとても優しく微笑んでいた。美紀、とそう言いかけて、真田は口を閉ざす。


「礼を、」

「はい?」

「礼を言わなくちゃならないからな。今度これを返す時、誘ってくれ」


 それだけ言って、真田は立ち上がる。ぽかんとしていたは、言葉の意味を理解して、不器用な真田らしいなと目を細めた。真田は、はい、了解しました!と言う言葉を背中に、玄関の扉に手を掛ける。
そして、瞼の裏に焼き付いた赤い光を、胸の内側へし舞い込んだ。

- end -

20100220

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