遠回りして帰ろうか


秋雨と傘と彼女

 突如ぐずついた天気にやられて、土砂降りの雨が降った。他の部員がとうに帰った事にすら気付かずに、ひたすらサンドバックに向かい合っていた俺は、窓を叩き割らんとする勢いの雨粒に気付いてハッと外を見る。
 立ち込めた暗雲は、最早沈み切った太陽によって齎された夜の幕と同化して判別は極めて困難だ。そのまま視線を滑らせ壁に掛かっている時計を確認すれば既に六時を回り、下校時間もとっくに過ぎている。もう秋だ。日が沈む時刻は早く、夕刻となれば気温もそれなりに下がっているだろう。
 体を動かしている間は全く気付かなかったけれど、こめかみから流れた汗も冷え、この部室内の温度が決して高くない事を俺はその時漸く身を持って知るはめになった。


「…しまったな」


 傘を持って来ていない。秋晴れで過ごしやすい一日だと大嘘を吐いた天気予報士はなんと言ったか。思わず溜息が出てしまう。
 仕方ない、濡れて帰るか。もしこれで体調を崩しでもしたら、美鶴に管理がなっていないと呆れられるだろうが、だからと言って止む保証のない雨を何時までも学校で待つ訳にはいかないだろう。
 影時間になれば天候など関係はなくなるが、代わりにこの敷地はタルタロスだ。山岸風花救出時のような事は、もうしたくはない。
 バックアップなしで、おまけにどの階層へ飛ばされるか分かったものではないからだ。そんなリスクを負って単身タルタロスに挑もうと思う程、自身の力を過信している訳ではないのだ、俺は。

 タオルで体を拭いて、トレーニング用のTシャツから制服に着替える。リボンタイをきっちりと結んで帰り支度をしている時、薄暗い鞄の中でチカリと何かが明滅している事に気付いた。

 どうやら着信らしい。二つ折りのそれを開けばディスプレイには、見知った後輩である、伊織順平、の名前があった。迷わずボタンを押して、耳元へそれを持って行く。
なんだ、どうかしたのか。そう俺が口を開くより先に、順平は馬鹿でかい声で俺の所在を尋ねた。
 鼓膜を通り抜けて脳を揺さぶるその音量に、キィンと耳鳴りがする。眉間に深く皺を刻んで、部室だ、と答えれば、良かった!…真田サンなんか怒ってんすか?なんて、お前のせいだとしか言い様のない返答が返ってくるものだから、寄った皺が益々深くなるのは仕方がないと言えるだろう。何なんだ、一体。


『いやね、雨が今酷いじゃないっすか。で、真田サンの傘が傘立てに置いてあるの見て、っちがだいぶ前に傘持ってそっちに向かったんすよ』

「何、がか?」

『玄関ホールにいるみたいなんすけど、真田サン、今はじめてケータイ見たんすよね?メールしても何も反応ないから、もしかしたら入れ違いになったかもってっちが。でもまだ部室なんすよね?』

「ああ」

『んじゃ、早く行ってやって下さいよ。リーダーが風邪ひいたら洒落になんないっしょ!』


 珍しく、何の迷いもなく頷ける順平のまともな意見に俺は同意して、通話を終わらせる。見れば確かに、メールが二件入っていた。
 それは二通共からのもので、学校にもうすぐ到着します、というものと、玄関ホールにいます、と言うもの。ただ、最初のメールを受信してからそろそろ一時間が経過しようとしている事が引っ掛かった。

 全く…何故、部室に顔を出さなかったんだ、あいつは。

 一体幾つのクラブに所属しているか知らないが、忙しない奴だ。そんな後輩の貴重な時間をこんな事に使わせている事が、申し訳ない気持ちにさせる。
 部室にしっかりと施錠をして足早に部室塔を後にする。これを職員室に返しに行かなくてはならないな。鈍く光る鍵から視線を外すと、雨は心なしか酷くなっていた。




「あ、真田先輩!」




 昇降口、下駄箱に寄り掛かるようにしていた小さな背中を見つけて、俺はそっと息を吐いた。それが安堵なのか呆れなのかは分からない。けれど、電気の落とされた薄暗く冷えたこの場所で、俺を待っている間何を考えていたのだろうか、と。心細そうに見えたのだ。タルタロスを探索する時は、そんな風に見えた事など一度だってないと言うのに。(ああ、けれど、リーダーとしてのこいつを要求したのは、紛れもなく俺達だ)ぽつりと、独りぼっちで佇むこの小さな背中が、何故か本来のの有りのままの姿のように思えて思わず足を止める。何と声を掛けて良いのかと言う戸惑いが言葉を発するのを妨害するのだ。
 それでも、足音か気配か、はたまたその両方か。は俺に気付くと、何処かホッとしたように表情を緩め、駆け寄って来た。


「悪いな、わざわざ」

「いいえ、青ヒゲに寄る用事もあったから、気にしないでください」


 カサリとビニール袋を掲げて見せるから俺は軽く笑いかけて、その頭を撫でてやる。はくすぐったそうに笑い声を漏らすから、二三度繰り返した。

 素直な後輩の女の子。リーダーとしてのこいつを切り離して見れば、きっとそれが一番適切に当てはまる言葉に違いない。努力家で、分け隔てなく誰かに優しさを与えてやれる、そんな一人の人間としての評価も高い奴。そして、嘘が下手くそだ。

 ちらりと覗いた青ヒゲファーマシーの袋の中身が、タルタロスで、持ち切れない程拾った傷薬だと言う事に、俺が気付いていないと思っているのか、お前は。わざわざこんな酷い雨の中、気を遣わせないためにこんな袋まで持って一人、彼女が歩いて来た道のりを思うと胸の奥底が苦しくなる。その、意味が分からない苦しさを、吐き出してしまいたかった。


、帰りに晩飯を済ませたいんだが、お前はどうだ?」

「私もご飯はまだですよ!是非、お供させてください」

「そうだな、お前の食いたいものでいい。これの礼になるか分からんが奢ってやるよ」


 傘を受け取って、靴を履き替える。そう言えばこいつとこうして二人で学校を出るのは、シンジを仲間に誘いに行ったあの日を除けばもう随分と久し振りだ。といると感じる訳の分からない感情。それに整理がつけたくてここ最近俺は無意識にこいつを避けていた事に気付く。そんな俺の複雑な思いを知ってか知らずか、は無邪気に、ご馳走になります、とはしゃぐように笑った。

- end -

20100323

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