発端は、私の溢した一言だった。いや、真田先輩の亡くなった妹さん、と言う単語だったかもしれない。荒垣先輩と一緒に、わかつでご飯を食べているときだ。
彼は目を丸くして、それ、アキがお前に言ったのか、と尋ねてきた。尋ねると言うよりも確認するようなそれに、何か不味いことを言ったかと焦る。ぎこちなく頷けば、先輩は、そうかアイツが…と少しだけ沈黙して、それから柔らかく微笑んだ。
荒垣先輩は、その鋭い眼光の裏側に細かな気遣いと優しさを閉じ込めた人だ。きっと私なんかよりもずっと、人の支えになれる力を持ってる。真田先輩の話だと、幼いときはもっと明朗で快活な性格だったそうだ。
そんな彼がどうして、こんなにも他人との関わりを拒むのだろうか。近づいたかと思えばひいていく。突き放すような態度の裏には何らかの考えがあるのであろうとは思うけれど、彼は踏み込んでもいいラインといけないラインを、しっかりと他人と自分との間にひいているのだ。小波のような人、そう頭の片隅で思った。
「アキのこと、お前になら任せられる」
そう、目を伏せた先輩の穏やかな表情。男らしいという表現が似つかわしい荒垣先輩先輩はいつだって不機嫌そうな顔をしていたけれど、これがきっと本来の荒垣真次郎という人なのだろう。
任せる、だなんて到底後輩に向けて言う言葉ではない。私は、夏休み前から不自然に私を避ける真田先輩を思い出して苦笑するしかなかった。
「私じゃ力不足ですよ…なんだかずっと避けられ気味ですし」
そう、控え目に否定する。
しかし荒垣先輩は、やっぱりわらっていて、そんなこたァねーと私の言葉に首を振った。アイツは馬鹿だし、ガキだからな。と一人ごちて、それから、もう少ししたら流石にあの馬鹿も色々気付くだろ。それまで大目に見てやってくれと、そう付け加えた。
意味がよくわからなくて、けれど、私は自分では到底、彼を任される事が出来るとは思えない。年上の男の人、と言う事もそうだけれど、何より――
「私、あんな風にひた向きに、走れませんから」
そう言えば荒垣先輩は、少しだけ困ったような顔をした。
真田先輩が此処までただ真っ直ぐに力だけを求めて走ってこれたのは、一重に、荒垣先輩が後ろから見守って一緒に走ってくれたからだと思う。彼のひた向きさは、どちらかと言えば既に常人の域を軽々と飛び越えたものだ。世界の残酷な仕打ち、全ての柵を見なくてすむように、真田先輩は極限まで自身の視野を狭くしてしまっているに違いないのだ。
それでも走り出すまでに、どれ程の時間が掛かったのだろう。どれ程の痛みを抱えて泣いていたのだろう。立ち止まっていた時間を知りはしないけれど、喪失とは生活に大きな影響を与える。
彼の、力を手にする、という、世界からの逃走へ繋がるスタートラインは、どれ程遠かったか。そこに並ぶまでに、そして、走り出してからも、そこには同じ痛みを内包した荒垣先輩が居たのだ。そんな人に、アキを頼む、だなんて、そんな事を言われても、自信なんてない。彼には貴方が必要なんですよ。
今度は荒垣先輩が、苦笑を漏らした。けれどそれはまた穏やかな色に変わってゆく。先輩はどこか昔を懐かしむように、窓の外に視線を投げた。
「確かに、アキは逃げてるだろうよ…俺ァ、美紀を亡くして、そこからアイツが立ち上がるまで、傍にいた。」
ぽつり、ぽつり、溢れる言葉。荒垣先輩の声しか、聞こえなくなる。外界の音が消えていくのを感じた。
「強くなろうっつって突っ走ってるのを、俺は止められない…止めてやるのが本当に正しい事なのかすら分からねぇ。けど、止めてやる力だって、必要だったんだろうなァ。」
先輩の言っていることはよく分からなくて、分からない事だらけで、私は静かに混乱していた。矛盾だらけですよ、先輩、なんて、突っつく余裕もない。荒垣先輩は、少し意地悪だと思う。彼は決して、答えてはくれない。ヒントを寄越してくれるくせに、導いてはくれないのだ。
アキを止めてやるのは、俺にはもう無理だ。だから、お前になら任せられると、俺ァ思ってんだ。先輩はふ、と息を吐いた。氷がすっかりと溶けた水。ガラスのカップが汗ををかいていた。でも、と言い詰のる私の言葉なんてお構いなしに、彼は言葉を遮った。そんなに気負う必要はねぇよ。だから、お前はもっと肩の力を抜け。
先輩は、すっと伝票を持って立ち上がる。それから、私の頭をぽんと叩いてレジへ歩き出した。私は、動けない。少し寄り道してくか、と、振り向き様に笑った荒垣先輩の優しい声が、胸の内側で反響する。
任せる、と言った先輩の言葉の本当の意味を知るのは、もう少しだけ先の話しだ。どうしてこんなにも、もの悲しくなるのか。その時の私に知る術なんて与えられていなかった。
- end -
20100413
Clap! 誤字脱字・感想などなにかありましたらどうぞ