私が彼女の申し出にのったのは、彼女の勇気や真っ直ぐな想いというものが私には欠落しているからではないだろうか。お願い、話がしたいの。見ず知らずの恐らく先輩に当たるであろうその人は、たった一人でそう私に告げに来た。
今までの女子生徒というのは、群れていなくては何も言ってこないような人達だったので、物珍しくもあったんだろう。尊大な態度も、敵意も嫉妬も感じない。私は彼女の瞳の奥にある苦しさを見て、頷いてしまったのだ。
本の虫のおじいさんとおばあさんが大切にしている柿の木の下で、そっと向かい合う。彼女は騒ぐ事も私を罵倒する事も、牽制する事もなく、ただ、真田先輩が好きなのだ、と。切に、痛いほどに張り詰めた想いを吐露するその人の声は少しだけ震えているような気がした。それは、ただ見ているだけで、恋をしているのだと分かってしまうようなもので。その直向さが、私には眩しくて、羨ましい。どうしたら、そんなに誰かを想えるの?怖くないのかなぁ。恋する女の子は強いと聞くけれど、それは本当だったみたいだ。
「あなたも、真田君のこと、好きなんでしょう?」
だから、そんな人にそんな事を言われたら、どうしたらいいのか、ふわふわとしている私は、簡単に見失ってしまう。何を言われているのか分からなくて、思わず、え、と声が漏れた。情けないくらいか細い声。こんなの、私じゃないみたい。なんでこんなに、心臓が煩いのか。鼓動がガンガンと耳を打つ。いっそこのまま、この人の言葉まで、聞こえなくなってしまえばいい。
裏腹に私は、考えていた。ただひたすらに、いつかアイギスと読んだ本の内容や、一般的にそうだと言われる説明的な文字列が頭の中に浮んでは霧散していく。好きってなんだろう。人を愛するって、どういうこと?私は、皆大好きだ。大切な仲間だって思ってる。それは友愛、親愛。それとは異なる愛情を、私は彼に向けているというのだろうか。彼だけに、特別に…。
一度、彼氏が欲しいと思っていた時期があった。中学のころだ。親戚の家を転々として、仲の良い従弟の家にお世話になっていた事もあれば、盆や正月にしか顔を合わせないような遠い親族の家に身を置いていた事もあった。友達もそこそこ居たし、虐められたこともない。むしろ、家庭事情を気に掛けてくれる子が大半だった。けれど、さみしかったんだ、私は。ずっと、さみしかった。希薄な人間関係。今も連絡を取り合っている子なんて、たかが知れている。自分勝手な私は、少女漫画のヒーローみたいに、何も言わなくたって、私の気持ちを理解して、大切にして、守ってくれる存在に憧れてた。いつも味方でいてくれる誰かが欲しくて、たまらなかった。誰かの特別に、ずっとずっとなりたかった。
けれど、それは結局、相手に寄りかかるという事だ。好きという言葉に、自分のだらしなさを許しあう、堕落していく行為だ。ありのままの自分を他人に見せることは、ひどく憚られた。だって、いつだったか、誰かが言った。
好きは、免罪符にはならない
好きだから。愛しているから。どんなに綺麗な言葉で飾っても、その根底は覆せない。誰かに依存してしまうことは、私にとって「恐怖」だった。そんなの、あまりにも可哀想だ。こんなに狡い私に、依存されるだなんて。
だから、真田先輩の事が、好き、だなんて。そんな事は、ないはずだ。だって彼は言った。神社で、帰り際に言ったのだ。妹と重ねているのかもしれない、と。確かに彼は、随分と私に心を許してくれているとは思う。けどそれが、恋情に直結するかと言われれば、回答に窮してしまうのだ。
ああでも、誰かの代わりには、なりたくないな。なんて、贅沢なこと、考えてる。
「あなたといる時の真田君ね、表情が、柔らかいの…わたし、初等科から一緒なのに、あんな顔、全然見たことなかった」
黙ってしまった私に、その人はにっこりと微笑みかける。目元にうっすらと張った涙の膜が西日に反射して、とても綺麗だと思った。
ああ、真田先輩のことが好きな女の子は、本当に沢山いて、けれど、こんな風に彼の幸せを心から祈っている女の子も、こんなところにいたんだ。先輩が好きだと喚き散らす女の子達ばかり見てきたけれど、きっとこう言う人も見えないだけで沢山いるんだろう。こう言う人のひたむきな想いこそ、恋情と呼ぶのに相応しいに違いない。私は、きっと、駄目だろう。だって私は、ふとした瞬間に甘えてしまいたくなる。こんなの、きっと、恋なんて呼べないよ。
*
お天気雨が降っていた。濡れたアスファルトを踏み締める。澄んだ空気。秋独特の空の色。遠くで回る白い風車や立ち並ぶビルの輪郭が融けていく。イヤホンから流れるお気に入りのメロディに合わせて、歩調が弾む。透明のビニール傘をくるくると弄びながら、委員会を終えた私は寮に向かって歩いていた。今晩は、何を食べようか。このままどこかのお店に入ってもいいけれど、少し迂回してスーパーに行くのも悪くない。けれど、広告の品をチェックしていないから、どうしようか。
ふ、と空を見上げると、虹が出ていた。大きくて立派な虹。昔は雨が降ったら虹を探すって、もっと自然に出来たのに。今は視界の端っこで見つからなかったら気付く事すら出来ない。年を重ねるってきっと沢山見落とすって事でもあって、けどその分、他のものを考える力が手に入るって事でもあるんだろう。
あまりに綺麗だったから、思わず鞄から携帯を取り出してカメラを構えて見る。けれど、どうしたって肉眼には敵わなくて、すぐに諦めた。肉眼に焼き付けるのが一番だということは分かるけど、形に残るのなら、残しておきたい、だなんて、それはきっとエゴなのだろう。綺麗に写らない事に落胆しつつも、真っ先に、私は何故か彼のことを思った。虹が出ています。先輩、真田先輩も何処かでこの虹を見てますか。気付いてますか。虹が出ていますよ。
「…なんで」
虹が出て、それを知らせたいと思った。一番に、先輩に伝えたいと思った。先輩だから、伝えたいって思った。その事実に私は酷く動揺して、手の中の鞄を思わず取り落とす。鈍い音。何かが決壊していくような気がして、急に足が地に着いていないかのように心細くなった。嘘だ。だって、あんなに違うって思ったのに、こんなのってない。肯定だけは、ありえない。ありえないはずなのに、どうして…。
真田先輩だけに、先輩だから、伝えたい、なんて。
だってこんなの、恋、みたいだ。
- end -
20100502
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