遠回りして帰ろうか


アダムとイヴと赤い果実

 どうしてアダムとイヴは、赤い果実に手を伸ばしてしまったのだろうか。禁断の知恵の実。禁忌に触れた愚かな男女は楽園を追放され、我々人類はその子孫なのだと言う。
 その話しを初めて聞いたのはいつの事だったろうか。私の曖昧な記憶では詳しい年月など何一つ分からない。それでも確か、涙が零れた。たった一粒であったかもしれないけれど確かに、私はこの話を聞いて涙を流したのだ。

 嫌いなものがある。例えばそれは、小学校の、毎月変わる薄っぺらい教訓。人に優しくしよう。皆と仲良くしよう。困っている人がいたら助けてあげよう。毎月教室のコルクボードに画ビョウで留められていた、一月の目標。それは一重に、人々の心がその教えと真逆の方向へベクトルを向けているからこそ生み出されたものではないだろうか。優しくないから、優しくしなさいと。淘汰するから、仲良くしなさいと。見て見ぬふりをするから、助けてあげなさいと。
 それと同じなのだ。直向きさ、誠実さを、知恵を手に入れる代わりにと差し出し続けた結果が、狡猾さである。誰かより上でありたいと言う、優劣である。
 神様はこわかったんだ。アダムとイヴが知恵を手に入れることが。ひとりぼっちになることが。だからきっと、赤い果実を禁じたに違いない。無知とは則ち、純心であるのだろう。
 幼い私は、確かに泣いたのだ。結局、楽園に一人きりになってしまった神様。そんな神様を思って、ほんの少しだけ涙を落とした。その時の私は、愛とは人を、独りにするものだと信じていた。



*


 真田の半歩後ろ、薄暗くなりはじめた廊下を、は歩いていた。しん、と静まり返っている校舎に響く、凛とした足音を追いかける。いつも曲がり角で話し込んでいる女子生徒も、見当たらない。真田の追っかけも突如涌いて出ることなく、調理室から出た二人の足取りを阻むものなど何一つなかった。
 話しがしたいと言った真田は、けれど、口を開かない。階段を登る背中は、いつかの神社の石段で見上げたそれよりも、幾分かまた逞しくなったような気がする。
 は、はやく帰りたい、と思っていた。出来ればこの人と二人にはなりなくないな、と。先輩と後輩と言う枠を越えたいとどこかで願う自分にも勿論気づいてはいたが、変化を求めるには相手の敷居は高過ぎたのである。真田の周囲には綺麗な女の子、素敵な女の子が沢山いるのだ。少なくとも、外見やその肩書きだけで彼を想っている子ばかりではないことを、ついこの間知ってしまっている。そんなを振り返る事なく無言で目の前の扉を開いた真田は、そこから眩い光を放つ沈みかけた夕日に、ゆるりと微笑んだ。


「ここからの景色は変わらないな」


 柵の手前まで歩みを進めて、振り仰ぐ。その隣に並んで町並みを見下ろせば、感嘆の息が漏れた。屋上に足を運んだ事がないわけではない。風花のお弁当を初めて食べたのもこの屋上であるし、依頼で花に水をやったりもした。けれど、この風景をまじまじと眺めた事もなければ、夕焼けの美しい時間帯に訪れた事も、一度もなかったように思う。
 そんなの様子を見て、真田が笑う。とてもやさしく、やわらかく、わらう。あたたかな夕焼け色の世界で、美しい人が微笑むと言うのは、ああ、なんて――。
 ずるいなと、真田を見上げては思った。何の打算もなしに、こんな風に笑い掛けるだなんて反則もいいところだ。ドキドキと高鳴りだした心臓を投げつけてやりたいと、本気で思っている。そして、どれだけ自分が苦しんでいるか、この人も思い知ればいいんだ、と。


「よく来るんですか?」

「いや…最近はあまり」


 騒がしい心臓をなんとかたしなめつつそう尋ねれば、真田は曖昧に笑う。微かに下げられた柳眉。は、また何か悪いことを聞いてしまったのではないかと肝を冷やした。舞子の時と言い、どうも自分は真田の地雷を踏みやすいのではないだろうか。冷や汗がこめかみ辺りにうっすらと浮かんで、秋の風によって冷やされていく。真田の心の傷を無闇につつきたい訳ではないのに。


「シンジがよくここでサボっていてな。部活帰りに迎えに来ていたんだ…」


 遠い昔に思い馳せる真田の横顔は、けれどとても穏やかだ。荒垣先輩、はそっと心の中で呟いた。不器用な人だった。まるで初春のように、やさしい人。真田の大切な、家族。砕けた懐中時計の鎖が、しゃらりと鳴る音を耳の奥で聞いたような気がして、目を閉じる。未だ病室で眠る彼の部屋は、面会謝絶の札が掛かったままだ。彼が倒れてから本当に色々なことがあったと思う。もうすぐ次の満月だ。活動部のメンバーは以前に増して団結力が増したようには感じている。
 と、今まで町を見ていた真田の視線が、を捉えた。


「俺は、妹を亡くしてから、大切とか、特別とか…そう言う存在を作るのが怖かった。」


 真田は静かに、口を開いた。強い眼だ。その視線は痛いほど真っ直ぐに、に向けられている。何かを決意したような、眼差し。真田はあらゆるものを乗り越えて、本当の強さを手に入れようとしているのだ。それを肌で感じ取ったは、何も言えずにその続きを待っている。けれど同時に、聞きたくない、とも思った。逃げ出してしまいたい、とも。


「けど、もう俺は逃げたりしない…二度と失わないためにも、大事なものは全部、守る。……お前も、俺が守る。」


 そのために、強くなるよ。

 すっきりと笑った真田の表情は本当に晴れやかで、は直視できずに俯いた。ずるい。ずるすぎる。お前は俺が守るなんて、今時少女漫画でだって、聞かない言葉をさらりと寄越すだなんて。は座り込んでしまいたい衝動を抑えて、馬鹿みたいに赤くなる顔を前髪で必死に隠すしか出来なかったのだけれど。真田はそんな様子に気付き、どうかしたのか、と、屈んで表情を覗き込んでくる。


「?どうした…顔が赤いぞ」

「っ…ほっといてください」


 しかし、と言い淀んでいる内に、ふい、とは真田に背を向けてしまう。恥ずかしさで、心臓が破裂してしまいそうだ。は、自分が泣きそうになっていることに気付いた。睨み付けたローファーの爪先が、滲んで見える。白いコンクリートの足場を染める橙色は次第に色味を深め、日没まであまり時間がないことを二人に告げている。
 帰りましょう、と提案することも、このまま走って逃げる事だって不可能ではないはずだ。けれどは動けなかった。はやく、真田がこの場から立ち去る事を願うばかりである。足が震えてうまく踏み出せないでいる。どうしてこんなに可愛くないんだろう。そう思っても、どうしたらいいのか分からない。他意などまるでないであろう真田の思わせ振りな発言に、簡単に動揺する自分がただただ憎らしいばかりだ。
 ひどくて、ずるい男。それでもこんなにも、思い知らされてしまうのは、は、彼のことがとても好きだ。

 ――と、空気が揺れる。は、びくりと身体を震わせた。自分の後ろから、腕がのびている。そしてそれは紛れもなく、真田明彦のもので。
 二本の力強い腕にぎゅうと抱き締められて、はもう限界だと言わんばかりに泣いた。ひどい。諦めようとか忘れようとか努力をしている事など何も知らないくせに、どうしてこんなことをするのだろう。わんわんと泣きじゃくるに戸惑いつつも、けれど真田は、その手を離さない。むしろ先程より強くぎゅうと抱き締めて、すまん、嫌なのか、と落ち込んだような声を出した。


「な、なんで、こんなこと、するんですかっ!はなして、ください!!」

「嫌だ。」


 駄々を捏ねた時の子供のような言葉だ。はとうとう意地になって、身体を捩って脱出を謀った。けれども、それを見越したかのようにますます拘束を強くする。そして真田は、肩に顔を埋めて、震える声で囁いた。


「好きだ」


 その言葉に、の動きがぴたりと止まる。驚きのあまり、涙さえも。お前が好きなんだ、と。もう一度確認するかのように繰り返されて、もうどうしたらいいのか分からなくなった。らしくもない、自信のなさそうな声音。泣いてしまいそうな、懇願するみたいな掠れた声。これは誰の、誰に向けた言葉だろうか。嘘だ、だってそんな素振り、今まで一度だって…。の頭の中にぐるぐると巡る、否定の言葉たち。何かが崩れていくような感覚に抗う術など、けれどとうに、失われていた。本当は心の底で、ずっとずっと欲しかったものだから。


「ずるい…」


 は回された腕をとって、振り向き様に飛び付く。零距離からの攻撃に、うわ、と声を漏らしながらも、真田はなんとか持ちこたえた。はただ、ぎゅうぎゅうと抱きついたまま離れようとはしない。否、思いがけずとってしまった行動に、?と名前を呼ばれても応えられずにいるのだ。なんて、大胆な事をしでかしてしまったのか。けれども熱を持った血潮が、脳の働きをどこまでも鈍らせているらしい。答えは未だ不明のままである。
 今までの自分は、これを赦すだろうか。ふとそう思う。けれど、けれどは、この人が向けてくれる好意に、甘えてみたいと思った。傍にいてほしいと願った。だから、言わなくてはならないのだ。たった一言、それはとても難しいのだけれど。


「…わたしだって、すき」


 やがて、絞り出された言葉。本当か!?と心底嬉しそうに声を上げた真田に痛いくらい抱き締め返されて、は彼の心臓も自分と同じくらい速く動いていることに、この時漸く気づく事が出来た。

 知恵の実を食べて、アダムとイヴは愛を知った。禁断の赤い果実。その蜜に容易く侵食されてゆく。
 は、ただ震える指先でしがみいた。愛を恐れることはない。ひどく簡単なことである。彼がいる限り自分は一人になることはない。そしてもう一つ、明白な事実がそこには存在していた。それは何か、それは何故か。分かりきったことだ。少なくとも、考える事が馬鹿らしいと思えるくらいには。答えはいつだって、すぐそこにあった。


「さなだせんぱい、好き」


何故ならここは、楽園ではないのだ。

- end -

20100

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