はじめての、喧嘩だった。喧嘩、と呼んでいいのか分からないような、ものだけれど…。違うんだ。正確に述べるのならば、ただ私が一方的に、真田先輩を、避けていた。
油断をしていた訳じゃない。ただ、構造が不安定なタルタロスに挑んだら、運悪く強敵ばかりの階層に辿り着いてしまっただけだ。問題があるとしたらば、それは未だ敵の情報が不十分な状態であった、ということ。そして、脱出ポットも階段も、全然見つからなかった、ということだ。擦り切れた防具、かわされる攻撃に、その日の探索メンバーだった天田君、ゆかり、真田先輩、勿論私も、じりじりと体力と気力を奪われていった、極限状態まで追い詰められたのだった。
「避けろ…!っ!!」
そして、その瞬間が、とうとうやって来てしまった、と、云うだけ。想定し得る最悪な事態、と、云うものが。
踏ん張りが利かず、タルタロスの床にある血溜りに足を滑らせたのが、敵に好機を与えてしまった。転んだ私に向かって、強敵が放った、一撃。確実な致命傷を負うだろう。疲れて、ずっしりと重い薙刀をぎゅっと握り締めた時、私の身体を、包んだのは――
鈍い、音だった。細身に引き締まっているけれど、鍛え上げられた、その身体が軋む音。それは、破壊そのものだった。無防備に敵からの渾身の一撃を受けた先輩の、裂けたベスト。そこから覗く赤い色が、彼が身に纏う衣類の赤などではない事は、傍目から見ても一目瞭然で。本来ならばきっと、立ち上がることも困難であろう傷。なのにも関わらず先輩は、自身に回復魔法をかけるよりも、敵の殲滅を優先したのだ。
痛みの為の痙攣か、震える腕をそれでも平然と持ち上げて、銃口を突きつける。死への恐怖を乗り越える力がペルソナを呼ぶとは云うけれど、彼は、間違いなく殺しているのだ。戸惑いもなく、トリガーに掛けられた指。皇帝カエサルの電撃に、赤黒い闇に溶け消滅したシャドウの断末魔は、掻き消された。
きっと、ありがとうって感謝するのが正しい。あのまま真田先輩が自身の回復を優先させていたら、シャドウはすぐさま攻撃を仕掛けて来ていただろう。その点を踏まえれば、リーダーとして、彼の行動に感謝するべきなのだ。それでも、ありがとう、助かりました、先輩の判断は冴えていましたね、だなんて、言う事が出来ない。
危なくなったら俺が守ってやるからな、という一言が、嬉しかった。お前一人くらい、背負ってやれる、と。どうしようもなく、どきどきしたはずだ。少なくとも、順平にからかわれるくらいには。けれど今、本当に彼が私を守ってくれたって言うのに、私はちっとも笑うことが出来ない。
なんとか見つけた脱出ポットに乗り込んでエントランスへ。応急処置でなんとか動いていた先輩は、ゆかり、天田くんと二人掛かりで回復魔法を唱えられてやっと傷が塞がるような、ひどい怪我を負っていた。
いつだったかゆかりに言われた事がある。に庇われた時、生きた心地がしなかった、って。私はただ心からゆかりを守れたこと、良かったって思っていたし、だからね、間違った事をしてないって自信を持って言う事が出来たよ。今だって、後悔なんてしていない。リーダーとして、特殊なペルソナ能力者として、皆をちゃんと守らなくちゃって、思ってる。けれど、ああ、ごめんね。私、全然分かってなかった。守られることで傷つくことだって、あるんだね。
「せんぱい…」
身体の異常がないか確認している真田先輩に、とぼとぼと歩み寄る。先輩は私を見ると、よかった、無事だな、と、目元を緩めて優しく笑う。なんだ、そんな顔をするな。お前は俺が守ってやると約束しただろう。当然のように差し出された言葉。先輩に守られたい、と、騒いでいた女の子達なら、卒倒ものだろうに。けれど私は、物分り良く、はい、と頷く事が出来ずに、今更になってじわじわと脳内で再生される温もりを、シャドウの嘲笑うような不気味な声を、恐ろしいと思った。大切な人を、いつ失うとも知れぬ恐怖。纏わり付いて離れない不安は、祈りになっても昇華されそうにないよ。
先輩、もう、強くならないで…
私は今、考えている。彼が感じている罪をのこと。真田先輩は、力がなかったから燃え落ちる孤児院へ飛び込む事が出来なかったと言った。救うことが叶わなかった、と。けれど、私は思うのだ。彼に力がなくて、よかった、と。もう、消防士すら無理だと判断せざるを得ない状態の建物に、子供であった先輩が駆けつけられたとして、それで何が変わっていただろうか。供えられる花の数と、誰かの悲しみであっただろう。皮肉なことだとは、思うよ。先輩は、先輩が最も嫌う非力さによって救われていた。救われて、生きてこれた。今まで生きて、生きて、こうして、私を見つけてくれた。私を好きになってくれた。今だってこうして守ってくれた。
"強くなろうっつって突っ走ってるのを、俺は止められない…止めてやるのが本当に正しい事なのかすら分からねぇ。けど、止めてやる力だって、必要だったんだろうなァ。"
いつかの、荒垣先輩の言葉は、ああ、こういう意味だった。彼のひたすらに求める力が、その直向さが、いつか、彼を殺すかもしれない。例えば、さっきみたいに、私を庇って。自分の身を、省みない強さによって。
もう、強くならないでよ…お願い。
所詮は、身勝手な祈り。彼を殺すかもしれないのは、私の弱さでもある。守られるようではいけないし、庇われるようではいられない。分かっている。けれど、そう願うしかないの――
見上げたのは、深淵の塔、タルタロス。本来ならばもう、消え失せているはずのそれは、影時間に不気味な光を、未だに放ち続けている。美鶴先輩、順平の離脱、幾月の裏切り、色々なことがあった。解決策が見えない暗闇で、私たちは未だにもがいている。いつまで続くのか分からない戦いに恐怖を覚えていることを否定する方法はない。だからせめて、この人はだけは、ねえ、せんぱい。
真田先輩に背中を向けて、走り出す。逃げ続けるのも、探索メンバーから外すのも、きっともう限界だ。けれど先輩、私の独りよがりを、軽蔑したって、いいよ。だからどうか、生きていて。あなたはずっと生きていて。
- end -
20100714
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