縋るように掴まれた腕に込められた力強さは、今はただ、子供が母親の服の裾を掴むような、不安気なそれのように弱々しく感じられた。傷付けてしまった、という事実だけが、脳を直接揺さぶるような衝撃になって、私を襲う。逃げ出した私を追い掛けて来た先輩の、微かに乱れた呼吸が鼓膜を震わせて、悲しげに歪んだ表情が、網膜に焼き付いた。
こわかったから、とか、私のせいで傷ついてほしくなかった、とか、そんなの、全部陳腐な言い訳だ。私はただ分からなくなっていた。彼に守られるだけでは嫌だと思った。そして、私を庇って怪我をしたのに、私の無事を誰より喜んだ彼に、どう接したらいいのか分からなくなっていたんだ。
「時間、いいか…?」
彼が尋ねる。そんなの、断れる訳がないのに。私は俯いて、はい、と短い返事と共に歩き出す。腕、そんなに掴まなくたって、もう逃げたりしないのに。そう思いながら、私は真田先輩と視線を合わせることが、どうしても出来なかった。彼は私に幻滅するだろうか。或いは、見くびるな、と、怒られるかもしれない。この気持ちをなんと呼べばいいのか、私には分からなかった。ただ、守りたいと思ったのに。彼を悲しませるあらゆるものから、彼を遠ざけたいとか、そんなことを願っていただけなのに。
*
多分、一番しっくりくる言葉は、罪悪感、だった。
両親が死んだあの時、私は、私を守るように抱き締めたあの手が、怖いと思った。ずるずると、血の海に投げ出された指先が、あんなにも私を慈しんでくれた指先が何故か、無性に恐ろしいもののように感じたのだ。
冷たくなっていく母の手を、、と呻くように私を探して彷徨ったその指を、どうして握り締めてあげられなかったのか。駆け寄って、おかあさんって。死に絶えた父の、あの、見開かれた瞳。暗い穴のように、開かれたそこは、私を責めていたのだろうか。涙のように流れた血が、いつも私を、ここに繋ぎ止める。
今なら出来るのに。今なら分かるのに。それがどんなに幼稚な主張であろうと、言い逃れであろうと、意味のない懺悔であろうと、そう思う事が沢山、沢山あった。
逃げ出して、生き延びたという、罪悪感。それは、引き取ってくれた親族が私を哀れみ優しくする程に痛みや苦しみをより一層伴ってやってきた。誕生日を祝われるのが嬉しくて辛かった。プレゼントの包みを開ける時、指先が震える程だった。自分という人間の肯定は背徳を伴っていた。
だからだと、思う。妹さんを守れなかったのに、自分だけ裕福な家に引き取られた真田先輩の自責の念が、私には手に取るように理解できたのだ。
「ごめんなさい…」
零れた謝罪の言葉は、誰への許しを乞うものなのだろうか。自分がどんな顔をしているのかは分からなかったけれど、はっと見開かれた先輩の表情から察するに、随分とひどいのだろう。表情を取り繕う事が下手くそになったと思う。涙を堪えることも最近では難しいのだ。これを良い方向への変化と呼ぶのか、退化と呼ぶのかは私が決めること。
先輩の部屋、抱き締められた腕の中、擦り寄るようにして目を閉じれば前髪を軽く撫でられる。普段は皮手袋に覆われた手。ボクシングをやっているから拳の骨が削れてしまってはいるけれど、先輩の手はとても綺麗だ。その拳が、彼の生きる上で必要な努力の代償だったと知っているから、とてもいとおしいのだろう。
甘やかすように髪を優しく梳く指先が心地良い。安らぎを感じて不意に泣きたくなったけれど、なんとか押し止どめた。
「わたしちゃんと、…好き、です。先輩のこと、好きなのに、」
ごめんなさい。傷つけてごめんなさい。庇い合って、助け合って、今までだってタルタロスを駆け上がって来た。それは当たり前の事だったのに、それでも、自分のせいで誰かが傷付くのを見たくないなんて。その癖自分は、傷付いても誰かを守りたいだなんて、我が侭だ。独り善がりな、思い上がりだ。ペルソナ能力がいくら特別なものでも、私はただの子供で、肉体構造の上では非力な女であると云う事を常に肝に命じておかなければならなかったのに。彼が私の特別になってから、私が彼の特別になってから、やっぱり変わってしまった。彼は、自分自身よりも私を守ろうとするようになったから…私は、私の為に傷つく彼を見ている事が、出来なくなった。先輩、分かってください。私だって貴方が大切なんですよ。
胸が、千切れそう。どきどきと、痛いほどに存在を主張する心臓。けれどそれは先輩も同じで、かたい胸板から鼓動が伝わってくる。
彼は、よくこうして私を抱き締めてくる。その鍛え上げた腕の中にすっぽりと私を閉じ込めて、まるで、私という存在を確かめているかのように。ただ単に、触れたいとか、そう言う気持ちもあるのだろう。けれど、怯えにも似たその行為は、彼の心の奥に秘められた恐怖そのもののような気さえする。何処にも行かないでくれ、と、そんな悲痛な懇願にも似た抱擁に、私は彼と、私自身の弱さを見出だした。
真田先輩は、私の肩に額を乗せて、溜め息を吐く。嫌われたのかと思った、と。そんなはずがないのに。彼はどうも、妙なところで自信がないのだ。
「…好きだ。」
囁く声が、甘い。低くて、少しだけ掠れたその声音に、私の心はいつだってこんなにも簡単に揺さぶられるのだ。先ほど堪えた涙が、今度こそじわりと滲み出た。真っ直ぐにぶつけられる好意。それはどんな想いで紡がれたのだろうと、そう思うと苦しくて、痛くて、愛しい。友愛を赦しても、恋情をはね除けた真田先輩。必要がないと思っていた、と言う言葉の裏には、なくしてしまうならいっそ初めから持たない方が良いのだと、そう言った沢山の諦めがあった。私だって、そうだった。ゆかりや順平に言う、好き、は心地よくても、誰かたった一人の異性に対して、好き、と言うのは、恐ろしい事だと思っていたのだから。
恋人と云うたった一つの枠の中に、誰かが収まる事を、明け渡す事を恐れていた私達。ぐずぐずと泣き出した私を見て、先輩はわたわたと慌てた。
「な、なんだ、どうした…?」
身体を離して改めて私の顔を覗き込む。宙をさまよう手が、なんだかおかしい。
好きです、と私は繰り返す。どれだけでも言いたいと、思った。特別な言葉を自分自身に刷り込んでしまいたかったのかもしれない。目尻を赤く染めた先輩は、ぐっと喉を詰まらせて、それから泣きそうな、情けない顔をしていた。
「―――」
頬に、手のひらが寄せられる。唇に何かが触れたと思う間もなく離れ、あ、と声を上げるよりも早く再び押し付けられた。私の唇は、目から溢れたそれのせいでしょっぱい味がする。はじめてのキスだった。涙の味がするキス。真田先輩はそのまま、再び私を抱き締めると、耳元に唇を寄せる。
「お前は俺と、俺と一緒に…」
その声は震えているように響く。何故か先輩も泣いているような気がして、私はただすがり付くように逞しい背中に腕を回した。走るのは無理だけど、歩くならいつだってお供しますよ。返した言葉に、ふと笑う気配。そうだな、もう逃げるための前進は終りだ、と、先輩は晴れやかに微笑んだ。
ごめんなさい。そうだ、わたしずっと、ゆるしてほしかったんだ。こんなわたしだけれど、この人を好きだと思うことを、共にあると約束することを。
- end -
20100717
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