遠回りして帰ろうか


なみだのうみ

 寒さに震えながら寮に帰った日曜日。ラウンジでゲームをして過ごしていたらしい順平が、「よ、おかえりー」と間延びした言葉を寄越してくる。窓が強くなりはじめた風を受けてカタカタと鳴る音がやけに響いて感じるのは、私の心が虚無感を抱えているからかもしれない。名簿に帰った時刻と名前を記入しながら、小脇に抱えたノートを抱き締めた。

「随分とすっきりしているんだな」

 言ったのは、真田先輩だったか。何もない部屋だから、そう評価されるのは当たり前だろう。むしろ、何もないなと言われなかったことが不思議なくらいには、私の部屋に物がない自覚はあった。ゆかりや風花は、一緒に雑貨屋に行って、何か可愛い物を買おう、お揃いの物を増やそうよと言ってくれたけど。
 持ち物を増やすのが苦手だ。
 別に何かある訳じゃない。同じようなことを言ったのは、病に身体を侵された神木さんだったろうか。彼のように深い意味を伴っての事ではないけれど、それでも私は出来るのならば自室に物を増やしたくはなかった。少し意固地になっていたのかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。
 それでも今、自室を見渡せば随分と物が増えたと自分では思っている。大切な物が増えた。百円ライターだったり、使い古された入門書だったり、もしかしたらガラクタだと名付けられてしまうかもしれないけれど、今の私を形作る大切な物だ。

「…………」

 うさぎのぬいぐるみを抱き締めながらベッドに寝転がったら、少しだけ涙が出てきた。なんでだろう。ばかみたい。無造作に手の甲でそれを拭う。ベッドスタンドの脇に置いたボロボロのノートを手にとって、ちくりと胸が痛んだ。

「最初は皆、同情してくれる。悲しんで、それから一頻り泣いたなら、次に僕のことを忘れてしまうんだ。」

 神木さんの表情は穏やかだった。それこそまるで春の陽射しみたいに。そんな彼の口からこぼれる声は、何故か泣き出す寸前のような熱を孕んでいるように感じる。
 先程まで会っていた人だ。日曜日は、なるべく彼と過ごすように決めていた。例えば遊びに行った後でも、その少しの時間でもいいから。神木さんは、僕のために無理しなくていいんだよ、ありがとう、と寂しそうに微笑んでいたけど。

「皆僕が死んだ、その先の未来の予定を立て始めるんだ。僕が居ないことにそうやって慣れて行くんだね…」

 彼の話しは重たい内容も多かったし、詩人のような気取りも時折顔を覗かせた。けれどそれを不快と思ったことはない。
 また会えたらいいな、さようなら、と微笑まれる度にどうしようもない気持ちになった。その別れの挨拶を、彼はどんな気持ちで口にしているのだろう。その一言一言に、もしかしたら本当に今生の別れになるかもしれないという哀愁を垣間見た。だから私は毎回、またね、と言ったのだ。また今度ね。それなのにこのノートを手渡されて、そして気付いた。ああ、神木さんはきっともう――。

「さようなら」

 最後に交えた、さようならの言葉が胸を刺す。もう、冷たい風に吹かれながらも私をベンチで待っていたあのシルエットを見ることはないのだろう。私の日常から、神木さんが消えてしまう。ああ、この悲しみを味わいたくないから、人はきっと誰かを忘れる努力をするんだ、きっと。そして、その人がいない事に慣れようとする。慣らしておかないと、張り裂けてしまいそうだから。
 涙の海で溺れたピンク色のワニは、果たして誰だったのだろうか。それはもう、きっと誰も知らない。

- end -

20100825

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