冬の足音が、聞こえる。各々、自由に日曜と言う休日を満喫しているであろう時間帯、洗濯や宿題を一通り済ませて、今からどうしようかな、と予定を組み立ててみた。どうやら風花と私以外、皆出掛けているようだ。調べ物があるの、とラウンジでノートパソコンに向かい合っていた風花に見送られて外に出れば、街路樹の彩りが角膜を刺激した。
少し肌寒い季節、巻き付けたストールの赤が、秋風にちらちらと揺れている。踏み締めた落ち葉の色は鮮やかで。ああ、けど、こんなに落ちているのなら、箒で掃いて掃除をしなくちゃいけないなぁ…。面倒な事実に気づいて、気付かなきゃ良かった、と息を吐く。それから私は空を見上げて、あ、昔住んでいた家を探そう。幸か不幸か、そう思い付いてしまった。
探す、と言っても、心当たりがあるわけではない。何せ、十年この地を離れていたのだ。その十年の間に此処も随分と開発が進んでいるし、河原も更地も、記憶にある場所なんて残ってはいないだろう。住所も、色々な場所を転々としていたせいで曖昧になってしまった。
それでも覚えている、潮騒。幼稚園に行く途中、母と手を繋いで歩いた、空き地。片隅に咲いていた名も知らない花ばな。並んだ影と、笑い声。
取りあえず、海沿いに歩いてみよう。
再びこの土地に舞い戻って半年と少し。忙しなく過ぎ去る日々にかまけて、そう隅々までこの街を見て回ったとは言い切れない。例えば路地裏、例えば狭い小道、例えば抜け道。浸るほどの感傷は、はなから持ち合わせていないから…。私は、歩き出した。明るい洋楽を聞きながら、少しの荷物の重みだけを感じて。
*
どれだけ歩いても、体はちっとも温かくならなかった。海の方から吹く風は塩を含んで重く、そして冷たい。海沿い、アスファルトの道をただひたすらに歩きながら、両親との思い出をかき集めようと、あちこちに視線をさ迷わせる。けれど、見れば見るほどに記憶は濃い霧に覆われたように、ぼんやりと霞んでしまう。ああ、よく考えれば、この地で三人、仲良く、幸せに暮らしていた日々の景色を覚えている人間は、もうこの世界で私だけなんだ。お父さんのこと、お母さんのこと。親戚の人達はもう、思い出話として語ってくれるようになった。それは私が大きくなったのと同じだけ、時間が過ぎたっていうことだ。
死者を思って胸を痛める期間は、どれぐらい必要なんだろうか。時折そう考えることがある。亡くしてすぐのようなやるせなさを、どれ程の時間を持って抱え続ければいいのか。
荒垣先輩の容態に対して、私達の前では全く取り乱さなかった真田先輩を、順平は少し薄情じゃねぇの、と言った。誰よりも荒垣先輩と親しかったのにね、とゆかり。無論、二人だって、真田先輩が荒垣先輩のことを悲しんでいない訳が、痛んでいない訳がないと、知っているはずだ。けれど、それならどれ程落ち込めばいいんだろう。十年近く前に亡くした妹さんの死に、それでもまだ胸を軋ませている彼は。十年以上前に亡くした両親の死を呑み込めきれていない私は。
なんて薄情なの。全く見覚えのない町並み。もしかしたら、一緒に歩いたことがあるかもしれないのに。その景色を覚えているのは、私だけなのに。たった一人生きている私は、彼らと過ごした日々を、昔の事だ、と、忘れてしまった。忘れたくないことだってあったのに。説得力なんてまるでないけれど、それでも、
大切だったのは、ほんと
お父さんと、お母さんと、私。三人で幸せね、と笑い合った、憧憬。果てしなく遠く、手など到底届かないであろう日々を、私は今再び『思い出』という形で傍らに置いておきたいんだ。それは、水槽の中の魚を愛でるような、そんなものなんだろうか。私は、流しっぱなしだった音楽を切って、イヤホンを再び首に引っ掛ける。潮騒。母の胎動とも云えるその響き。腹の底から何かが這い上がって来そうで、もどかしく、叫び出したくなる。ああ、いっそ引きずり出す事が出来るのなら、どれだけ楽になるのかな。
私は再び歩き出した。体が芯まで冷えきって、寒くて、痛くて仕方がない。さ、帰りましょう。もう思い出せもしないお母さんの優しい声が聞こえた気がして、けれど、どうしても振り向く事が出来なかった。
- end -
20100917
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