遠回りして帰ろうか


閉じ込められた幸福

 アイギスの、大切、という言葉は、に向けられたものではなかったことが分った。今、この寮の空き部屋、二階の一番奥の部屋には、望月綾時が眠っている。そして、特別課外活動部の一員であったアイギスは、破壊されてしまった。望月綾時に、の両親を殺した、死神に、だ。もう大型シャドウが現れることのなくなった満月の晩、アイギスの様子がどこかおかしい事に気付いていたのに、最悪の事態が起こってしまった。ラボで修理をするからと桐条の車で運ばれていった彼女の、透き通った硝子の瞳から光が消える瞬間。ごめんなさい、と繰り返された言葉。それはなんだかひどく呆気なく、弱弱しかった。
 頭が痛い、とは思った。こめかみがズキズキと、心臓の鼓動と同じリズムで痛みを刻んで、吐き気にも似た不快感が胃の奥から迫り上がってくる。無邪気にはしゃぐ綾時が死神で、自分を大切だといって譲らなかった機械の少女が、自分の中にそれを閉じ込めたのだ。家族の、平凡で、幸せだった日常を奪った、二人。なのにどうしてこんなに胸が痛いのだろうか。感情がなくなってしまえばいいのに、とは思った。それが無理なら、憎んでしまえばいいのに、と。憎しみに任せて、今此処で眠るこの泣き黒子の少年の首を絞めてしまえたのなら。

「出来るわけ、ない」

 出来たなら苦労しないのに。おかしくもないのに、何故か笑えて仕方がなかった。もしかしたら自分は、おかしくなってしまったのかもしれない。それなら、それでもいいだろう。狂うことが出来るなら、けれどもう、きっととっくに狂ってしまっている。現実から逃げることは出来ないと、一体どれほど思い知ればいいのか。
 一人にして欲しい、というに、誰も何も言葉を掛けてこなかったのは、掛けるべき言葉がないからだ。そっちのほうが、気が楽でいい。今は強がることも、言葉を発することも面倒で仕方がない。誰かを安心させるために微笑むことも、疲れて出来そうになかった。これはの問題なのだ。気持ちの整理は、自身がする他にないのだから。
 は、ベッド脇の台に置いてあった写真を手に取った。修学旅行の時の写真だ。現像したから、と、順平が渡してくれたもの。その薄い紙切れには、幸せが詰まっていた。そこに写っている皆が笑っている。勿論、自分も、そして綾時も。アイギスは笑ってはいないけれど。幸せとは、この写真そのものなのではないだろうか、とは思った。薄っぺらくて、失くしてしまいやすい。簡単に、破れてしまう。写真に閉じ込められた笑顔が、今はただ悲しい。何も知らないままでいられたらよかったのに。

カシッ、カシ

 すると不意に、扉の向こうから奇妙な音がした。キューン、という鳴き声。コロマル?と扉に向かって声を掛けると、ワン、と返事が返ってくる。重たい体を引きずるようにして扉を開ければ、案の定というか、コロマルが。
「どうしたの?」

 わざわざ三階まで、階段を上ってきたのだろうか。不思議に思って差し出した手のひらに濡れた鼻が押し付けられて、はたまらない気持ちになった。コロマルは人間の言葉を話せないけれど、ちゃんと気持ちを理解してくれる。へたな慰めは要らなかった。傍にあるこの温もりがただ今は有難い。部屋の中にコロマルを招き入れて、は床にしゃがみこんだ。円らな赤い瞳が、こちらをじっと見つめている。ふかふかとした毛並みに鼻先を埋めて、少しだけ和らいだ頭痛にに息を吐いた。

「ありがと、コロマル」
「わふ」

 元気出せよ、と言われた気がして、は小さく頷いた。

- end -

20101016

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