遠回りして帰ろうか


毒薬と水槽

 気分が重たい。詰まらない授業を受けながら、は前を見た。桃色のカーディガンを着たゆかりの背中が視界に映る。彼女も、そして右隣の席で、珍しく午後の授業中に爆睡していない順平も、今日は元気がなかった。当たり前だ。気持ちの整理どころか、新たにそれらを掻き乱す出来事が起こったのだから。平然と振る舞えるだけの器用さも、それを補えるだけの経験も、まだ年若い彼らには不足している。
 若干猫背に丸まってしまった背筋をぴんと伸ばして、つらつらと語る授業の内容を必死に頭に叩き込もうとする。ちらりとさ迷わせた視線の端に、つい数日前まで黄色いマフラーが色付いていた空席を認めた瞬間、の手に握られていたシャープペンシルの芯が、音もたてずに砕け折れた。

「ニュクスを殺すことは、絶対に不可能だ」

 昨晩、宣告者は告げた。やさしい死神、望月綾時。彼は、途方もない選択肢を、それでも与えようとしてくれたのだった。帰着点は一つしかないが、そこに辿り着く道をもう一つ、作ってくれたのだ。影時間の記憶を全て手放す、という、緩やかな終焉を迎えるたった一つの道を。
 は、無理矢理笑おうとして失敗してしまったような綾時の表情を思い出して、呼吸が苦しくなる。自身の中に封じ込められていた死神、それはファルロスという名の少年の姿を借りてにワイルド能力開花の手助けをし、解き放たれて尚も、のことを思いやる気持ちを忘れていなかった。沢山の女子生徒に声を掛け、好意を向けられているのにも関わらず、どこか不安定で、孤独を抱えていた綾時は、自身が決して人と交わることが出来ない存在であることを、知らず知らずに感じていたのかもしれない。
 君を苦しめたくないよ、と言った、綾時の瞳の透き通った青色。底冷えするような、熱を感じさせない色だ。けれど、今こんなにも、の胸は熱く、じくじくと膿んだように痛い。

(殺すとか殺さない、とか、考えたくないよ)

 それらを振り払おうと、精一杯丁寧に、はノートに文字を綴った。いつもより使うペンの種類を増やしてみる。今時の女子高生らしい授業ノートの完成に、けれどちっとも喜ぶことが出来なかった。むしろ、虚しい気持ちになってくる。このページだけ明らかに浮いてしまっているのだ。日頃は最低限の色ペンしか使わないからか、余計にゴテゴテして見えて、あまり目に優しくない出来栄えとなっている。

(これ、三学期とかになってから見直した時、どんな気持ちになるんだろう)

 その時の自分を想像すると、なんだか間抜けだ。思わず口元が緩む。きっと、なんだコレ、と訝しげな表情を浮かべるに違いない。けれど、はほぼ同時に、酷い動揺に襲われた。心臓を鷲掴みにされるような緊張感に身体が強張っている。

「春はもうこない」

 恐ろしい予感に、はただただ身体を震わせた。死は、確実にこちらへ向かって来ているのだ。そして、その影は全世界へ落ちている。逃げ場などどこにもない。達は皆、水槽の中に毒を入れられる直前の金魚のような状態なのだ。
 身体を抱き締めるように俯いたの様子に、誰も気づかなかった。

- end -

20101026

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