遠回りして帰ろうか


壊音

 つい、この間の夜の話だ。ラウンジで、皆の意見を話し合った夜。気丈に振舞うゆかり達に腹を立てた順平が、に怒鳴りつけた夜。お前のせいだ、と言われた瞬間、の中で何か一つ、心を押さえつけていた大切な部品が弾け飛んだ。激情が沸々と溢れたが、それが怒りとして外側へ放たれることはなく。そこにはただ、ひどく冷たい目をした少女がソファに腰を下ろしていた。は、自分の心が引き裂かれるような悲鳴を、耳の内側で聞いたのだ。
 何故そんな言葉を、不条理に投げつけられればならないのか、それがには理解出来なかった。順平は自らの発言が何を意味するのかなど、恐らく深く考えてはいまい。確かに、デスを体内に孕んでいたのは他ならない。だが、そのデスが、今解き放たれていない未来があるとしたならば、そしてそれを望むというのなら、ああ、順平は、分っていたのだろうか。に死ねと、お前が死んでいればよかったのに、と、言ったようなものだという事を。
 シャドウは精神を喰らう。食い尽くされれば、知っての通り生ける屍となるのだ。ワイルドの能力があったから、は助かったのだ。此処まで生きてこれた。彼女は自らの内側で、デスを抱えるだけの力を備えていたのだ。それがなければ、は精神を食われていただろうに。だが、逆の発想、というものも、あった。シャドウは精神を食い尽くしたとしても、その肉体から出ることが出来ない。だとすれば、一人犠牲になってさえいれば、世界は今も平和だったはずなのだ。少なくとも、彼女が影人間として死ぬまでの数十年後に問題を持ち越しただけであったとしても、だ。

「そんなの、知らないよ」

 の心のヒビが、音をたてた瞬間だった。


*


 真田と二人、放課後を過ごす約束をした。いつも彼がいる場所へ、は小走りに向かう。腕を組んで、壁に寄りかかっていた真田は、相変わらず女子生徒に囲まれていた。けれど、そんな黄色い声などまるで聞こえていないかのように、真田は俯き加減に黙りこくっている。彼が物思いに耽っているのだと、遠目から見てもすぐに分った。は、思わず声を掛けることを躊躇った。考え込む理由など、特別課外活動部の者が知らない訳がない。それは共通しているのだ。
 第一声を掛けるタイミングを失ったは、ぼんやりと真田の姿を眺めた。十数歩、それだけの距離が、この間まであんなに簡単に埋めることの出来た距離が、どうしてこんなに遠いのか。屋上で抱き合ったぬくもりも、優しい夕焼け色も、今はひどく、眩しい。白い廊下に落ちた自分の影はひどく濁って、汚らしい色彩にの瞳には映った。

「どうした?そんな所で突っ立って」

 ぴくり、降ってきた声に、の肩が小さく跳ねる。そろそろと顔を上げると、予想よりも近い場所に真田は立っていた。は、恐る恐るといった具合に微笑んでみせる。真田は眉を下げて、困ったように首を傾げた。二人の間には、のぎこちなさから生じた気まずさが漂っている。
 甘い夢を見ていられたのは結局、一月に満たない時間ではあったけれど、思い返せば、真田と思いを通わせることが出来て、はとても幸せだった。心からそう思うことが出来る。二人は昇降口まで、言葉を交わすことなく向かった。ことん、茶色いローファーを床に落とす。の磨り減りひび割れた心は、急速にこの世界から遠ざかりつつあった。

「この間も言ったと思うが、」

 モノレールを待つホームで、真田は久遠を真っ直ぐに見つめる。彼が何を言わんとしているのか、すぐに検討が付いた。いや、そうであるべきなのだ。の愛する真田明彦という人は、そうあるべきなのである。全て理解した上で、は先を促す。目の前の真田と話す自分が誰なのか、その時彼女はよく分からなくなっていた。

「俺は戦おうと思っている」

 真田の決意は、きっと変わらないだろう。強固なものだ。ゆかりや美鶴だって、そうだ。皆、絶対的な死へ立ち向かおうとしている。は、ただその狭間で不安定に揺れていた。自らの死を間接的に多くの人々に望まれているような不安が、痛みが、の心を麻痺させていく。果たして、記憶を手放した穏やかな死のために、彼女は綾時を殺すことが出来るのだろうか。綺麗事を漠然と吐き続けられるほど幼稚ではないけれど、割り切れるほど大人でも、残酷でもなかった。ぼんやりとした瞳を瞬かせたを見て、その時真田は何を思っただろうか。慌てたように口を開く。

「あ、勿論お前に俺の意見を押し付けようってんじゃない。ただ、お前には分っていて欲しいってだけだからな」

 が返事をするより早く、モノレールの到着を告げるアナウンスが流れ出す。彼女の言葉は、雑踏にかき消された。

- end -

20101029

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