遠回りして帰ろうか


おやすみ、よい夢を

 年末の忙しさをあまり感じることもないまま、は肌を刺す風の冷たさを感じていた。今日で、何をどう選んでも、特別課外活動部は一つの終わりを迎える。
 いつもはコンビニで安く済ませて我慢しているケーキを、奮発して有名な店で買ってきた。最後まで絞り切れずに迷った三種類だ。晩御飯が食べられなくなりそうだ、と思ったけれど、どうせ喉を通らないだろう。はマフラーを口元に引き寄せると、一瞬だけ触れた自身の指の冷たさに微かに顔をしかめた。荒れた手だ。手のひらは真新しい傷跡がある。豆の潰れた傷だということは、一目瞭然だった。もう、何度もそれを繰り返している。制服越しでは目立たない、肩の筋肉はそれなりに逞しく発達しているし、かすり傷や火傷、裂傷、様々な傷痕を刻んだ身体だ。これ以上傷付いたところで、変わりはないとは思った。それは、心、も同じこと。
 クリスマスを過ごして、は次第に知らなければよかったと後悔することが多くなったように思う。幸せだとか嬉しいだとか、満たされていたはずのものも気持ち一つで嘆きの要因へ成り変わる。なんとも愚かで、未熟な精神だ。けれど、本物の愚者とは果たして誰を指すのだろう。回避出来ない死に牙を向こうとする特別課外活動部は、綾時から見れば愚者そのものに違いないのではないだろうか。
 は俯いた。このまま座り込んで、踞ってしまいたい衝動が込み上げてくる。寮へ戻る足が止まりそうになることには、まだ気づかないふりをしていたい。そうでなければ、押し潰されてしまいそうだった。綾時は今日もまた微笑むのだろうか。ファルロスであった頃から変わらない、哀しさを閉じ込めたような瞳を優しく細めるのだろうか。


「あっ」


 突然の声に、爪先に落としていた視線をぱっと前に向けた。一人の女性が、電信柱に片手をついている。バランスを崩したのを持ち直したのだろう、その表情に浮かんだ安堵の色。見れば、女性の腹はなだらかな球を描くように膨らんでいた。の視線に気付いたのか、女性が曖昧に微笑む。誰だって、失態を見られれば恥ずかしいだろうに、思わずじっと見つめてしまっていたことを思い、は小さく頭を下げた。


「ふふ、転ばなくて本当によかった」


 照れの交ざった声音で、女性が微笑む。胎児を労るように腹を撫でる手は優しく、瞳には溢れんばかりの愛情があった。はひやりと背筋が凍るような思いを味わう。次いで、憐れみの情が。かわいそうに、この子は世界を知らずに死んでいく。自力で呼吸をすることもないまま、物事の善し悪しも知らぬままで、死んでいくのだ。
 は柔和に笑んで、本当に良かった、気をつけてくださいね、と女性に会釈をした。そして、足早に寮へと歩き出す。彼女の瞳の光は、永遠に潰えてしまった。




*




「私は、あなたを殺す」


 望月綾時は、驚くことも悲しむこともなく頷いた。それどころか、安心しているようにさえ見える。良かった、と小さく呟かれた言葉は、けれど震えていた。綾時はの手を取って、両手で包み込む。自身の額にそっとそれを添える姿は、遠目から見れば祈りを捧げているかのように映るだろう。
 に迷いはなかった。死を遠ざけることなど出来やしないのだ。それが早いか遅いかという違いだけなのであって、むしろ、全ての命が一斉に失われるのであるならば、何を恐れる必要がある。絶望の中を歩き続ける選択肢を皆は望んでいたけれど、その決意も意志も尊いものではあるけれど、だから何だと云うのだろうか。は彼らの苦しみや葛藤を、リーダーとして、友として近くで見てきた。そして、もう十分ではないか、と思う。これ以上はあんまりだ。ならばせめて、記憶をなくしたとしても、悲しみも苦しみもなく幕を引こうではないか。
 手に馴染んだ、ずっしりとした重み。綾時を葬るために、は敢えて薙刀を選んだ。手に感触が残るからだ。恐らく斬りつけた瞬間から綾時は影のようになって霧散してしまうだろう。だが、命を奪うという自らの行動を、決断の重さを、忘れてはいけないと思った。は、痛みを全て自らの内に閉じ込めようとしているのだ。


「さあ、もうすぐ時間だ」


 綾時の言葉に、こくりと頷く。冷たい手が離れていった。君の手はあたたかいね、と泣き出しそうな表情を思い出す。

(真田先輩は、怒るかな)

 ふと、そんなことを思う。知り合った切っ掛けであった特別課外活動部の記憶は消えてしまうのだから、そうなればきっと、真田と過ごした事実も、喜びも悲しみも、何もかもがなかったことになるだろう。けれど、もう後悔はない。これで何もかもが終わるのだから、いいのだ。真田との約束が、ほどけていく。未来を繋いでいた頼りない糸が、ぷつり、切れる音を、はその時確かに聞いた。


「おやすみ、大事な君」

「おやすみ綾時」


 世界が、白んで消える。祈る人の手は、もうどこにもなかった。

- end -

20101110

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