青い蝶が、ふわりと舞っていた。それ以外は、どこをどう見回しても、何もない。真っ黒い足場が、空間がそこには広がっていた。おかしいなあ、とは首を傾げる。光のないその場所で、蝶が纏う青白い輝きだけが不自然に浮かび上がっているのだ。どうして自分の姿をこの暗闇でも見失わないのだろうかと不思議に思う。手のひらをじっと見つめてみると、自身も淡く発光しているようだ。舞い遊ぶように、ふわふわと、ひらひらとの周りを飛び回るその蝶を目で追っていたら、不意に声が聞こえた。
『…は……を…て』
途切れ途切れの言葉。その声の不透明さに、けれどどうしてか、胸が痛む。知らない痛みだ。知らないはずなのに、どうしてこんなに、どこか懐かしさすら覚えるのだろう。そう、誰よりも知っているのだ。この痛みは、私だけのものなのだとその時何故そんなことを思ったのか分からない。けれど、どくどくと脈打つ熱い血潮と共に駆け巡るこの途方に暮れるような悲しみも寂しさも、愛しさ、も、他の誰のものでもないと、叫びたかった。
キイイン、と、硝子が壊れるような耳鳴り。途端に輝きをなくしていく体が、爪先から順に姿を消していく。その時は、自分がどこまでも落ちていくような気がした。
「荷物など、お忘れ物のないよう…」
うつらうつら、波間を漂うような意識の曖昧さを心地よく感じながら、少しばかり肌寒い空気に彼女は気だるげに目を開けた。身体を揺すっていた振動は、いつの間にか消えている。どうやら、今この電車は停車しているようだ。アナウンスが告げた駅名を記憶から引っ張り出して、はハッと飛び起きる。次の停車駅が、自分の目的地、巌戸台駅だ。携帯電話を取り出して時刻を確認すれば、もうすぐ日付を跨ごうとしている。電車の遅延について、寮に連絡を入れておくべきだったな、と、すっかり眠りこけてしまっていた自分を少しだけ憎んだ。ああ、寮の扉が施錠されてしまっていたら、どうしよう。路上で眠るなんてことになったら?ふつふつと不安が湧き上がってくる。
何か、とても長い夢を見ていたような気がする。寝起きでまだ少しぼんやりとした頭で、そう思い返す。そう、長い夢だ。何か、とても大切なことだったような気がするのに、どうして思い出せないのか。もやもやとした気持ちを払拭できないまま、は荷物を持って座席から立ち上がった。音楽プレイヤーからは、今の心情と裏腹に明るいポップミュージックが流れている。もう何度目の転校だろうか、色々な場所に移り住んできたけれど、こんな大都会に住むことはあまりなかった。ここは元々、両親と一緒に十年前までは住んでいた土地であるけど、昔はそんなにまだ開発が進んでいなかった更地の多い場所だったのだ。それに、もうあまり、その当時の事は覚えていない。いつこの街から離れたのかも、記憶がなかった。一つ思い出せるのは、気持ちが悪いほどに大きな、月、だ。
は鞄から、学校のパンフレットを取り出した。挟んでおいた寮の案内が書かれた紙を取り出すと、月光館学園巌戸台分寮、と、少し古い建物の写真と地図が。もう暗いだろうし、目印になるお店も閉まっていることだろう。ちゃんと寮まで辿り着けるのか、いまいち自信がない。巌戸台駅から寮までは、商店街を越えて、数分という距離らしい。なるようになれ、と投げやり気味に苦笑を浮かべて、は紙と、それから切符を握り締めた。
「ん?」
階段を登って改札を出ると、一切の音が前触れもなく途絶えた。たった今、切符を吸い込んだはずの改札機すら光を落としている。駅構内の照明もない。都会とはいえ、この巌戸台は古い建物などが残る土地だと聞いているので、そのせいだろうか?どうやら自分が今日最後のこの駅の利用者らしいし、せっかちな駅員がいたとしても、仕方がない。腑に落ちない部分のが大きいが、この奇妙な出来事に理由が欲しいと思うくらいには、も女の子だ。何故か同時に動かなくなった音楽プレイヤーのボタンをカチカチと押しながら、駅を出る。そして、目の前に立ち並ぶ棺桶のようなオブジェと、それから、巨大な月には身を竦めた。
「間に合わなかった……」
気味が悪い。
棺桶を避けて早足に歩き出す。この時間に外を出歩くことを今までなんとしても避けてきたというのに。不安に負けそうになりながら、目的の建物を見つけて、は深いため息を吐いた。緊張が少しずつ解れていく。緑色に近い寒色系の電灯を使っているのか、窓から漏れる光は、あの月明かりに似ていた。
「やぁ、遅かったね」
彼女の物語が、再び廻りはじめた。
- end -
20101210
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