戦いたくない。
特別課外活動部に入ることになった時、まさかこんな形で後悔をする日が来るとは思ってもみなかった。確かにこの日常は体力的にも精神的にも中々辛いものだ。タルタロスを探索すれば、その日の就寝時刻はどれだけ早くても一時を過ぎる。肌に悪いなあ、というゆかりのぼやきに、渋い顔で頷いたこともあった。
けれど今は、そんなことはとても小さなことだと思う。命懸けの戦いであることは、ペルソナ覚醒を果たしたあの夜から分かっていたはずだ。けれど、また思い知らされた。モノレールを操る大型シャドウとの戦いで、もしあの時、咄嗟の勘が外れてモノレールを停止させることが出来なかったらどうなっていたか、今思い出しても恐ろしい。
それに何より、気味の悪い事があまりにも立て続けに起こりすぎている。消えた荷物。感じる視線、気配。自身のものとは似て非なる感情の波。そういえば、大量の資金がの部屋から発見されたこともあった。美鶴にも心当たりのないという、百万を優に超えるその大金。それが今の特別課外活動部の資金となっているが、性能の高い防具や武器が揃っていた事といい、誰かがこっそりとサポートして、こちらのやり易いように整えてくれているようだ。あまりにも、事がうまく運びすぎていた。はじめこそラッキーだなあ、運がいいなあ、と前向きに受け入れていたが、それは怠慢だったかもしれない。こんな状況は、あまりにも異常だ。そう、本当は薄々気味が悪いなと感じてはいた。ただ、そう自覚してしまうことが怖かったから、考えることを保留にしてしまったのだ。
(この体も、きっと変なんだ)
は自身の手のひらを見つめて、今まで何故疑問にも思わなかったのか、自らの思考の気楽さを嘆いた。影時間に対応しきった体だ。ゆかりや順平は、高山でトレーニングしたようだ、とタルタロス探索の後の疲労感を表現した。しかしどうだ、はそんな疲労など、全く感じなかった。タルタロスに初めて足を踏み入れた時もそうだったではないか。本当に此処でこうして戦うのははじめてなのかと疑いたくなるくらい、は手馴れていた。少なくともシャドウ殲滅に対して、迷いも戸惑いも、生まれない位には。
ああ、それからもう一つ、身に覚えのない感情。先輩である真田明彦へ感じている、一方的な親近感。挙げ始めればきりがない。時間が経過するにつれて、もう知らないふりだけでは身動きが取れなくなってきている。心が、負荷に耐えられない。
そうして今、は新たな恐怖と向き合っている。分厚い本を目の前に広げて、は気が遠くなるような感覚に襲われた。ペルソナ全書――それは、今までにが手に入れた心の鎧、ペルソナを記録したものである。いや、そうであるはずだ。モノレールを乗っ取った大型シャドウが現れて、もう一週間になる。あれからは、タルタロスには足を運べど、ベルベットルームには訪れていなかった。そろそろ新しい依頼を受けようと訪れたこの部屋で、新しいサポートとして手渡されたこの全書は、確かにだけのものであるはずだ。なのにも関わらず、このペルソナ全書には、の知らないペルソナが多く記されている。分かりやすく刻まれたパラメータの値は、今が心に宿しているものとは桁違いだ。
「何、これ…私、こんなペルソナ知らないよ?なんだかすごく強いし」
身に覚えのないペルソナ達。けれどイゴールもテオドアも、この全書はのもので間違いないという。
「これは貴女様の魂の記憶に刻まれたものでございます」
「魂の、記憶」
近頃身に覚えのない感覚に戸惑ってばかりのは、その言葉を繰り返した。ペルソナ全書を閉じると、黙って席を立つ。こんな気持ちで、あれほどの力を秘めたペルソナを扱えるとは思えない。身に纏った鎧が重すぎれば自滅を招くことと同じで、心を守るためのペルソナで自身が動けなくなってしまえば意味がないのだ。今日は帰ろう、そう思い、一礼してくるりと扉の方向へ。そんなの背中に、テオドアがふと声を掛けた。
「時間軸」
「え?」
「この世界には、多くの時間軸が存在していると云われています」
どくん、と心臓が跳ね上がる。は振り向くことが出来ず、無言でその続きを促した。テオドアが、そんなの背中に向かって言葉を紡ぎ続ける。
「その時間軸には、同じ場所、人が存在し得る…パラレルワールド、ともいうのでしょうか」
暗い闇の底を、覗き込むような恐ろしさ。そして、それにも打ち消されない、好奇心というもの。どういうことなの、と振り向き尋ねようとしたの唇を、白い手袋におおわれた指先が制した。いつの間に近くにきたのだろう。テオドアは、ただ静かに微笑んでいる。
「真実は貴女の手で…それでは、またのお越しをお待ちしております」
とん、と踏み出した足が扉を超えた。深海のような色彩は消え失せ、目の前には、ポロニアンモールの薄暗い路地裏の灰色が広がっている。
「平行世界…」
知らないこと、分からないことが恐ろしい。そんな人間の欲にまみれた恐怖心に、は少しだけ震えた。タルタロスの暗闇の先から、物言いたげな視線を送る誰かは、もしかしたら全てを知っているのかもしれない。誰か、が誰なのか――そもそも、見つめられていること自体、ただの勘違いかも知れない――何一つ分からないけれど、それなら簡単なことだ。影時間を消してしまえばいい。そう、この特別課外活動部の活動目的に従えばいい。あの時間を閉ざす事が出来ればきっと、全てが分かるだろう。戦いたくないから、それを終わらせるために、戦わなくてはいけない。
小さく深呼吸をして、は歩き出した。そのためには、もっともっと力が必要だ。真田が近々復帰するらしいので、戦力も整うだろう。けれど、だからと云って胡座をかいてしまえば、生き残れない。一瞬の判断が大切なのだから、経験を積まなくては。今夜もタルタロスに行こう。そう夜の計画を立てて、彼女は早足にポロニアンモールを後にした。
- end -
20110701
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