それは声になることはなかった。違う、声になったのかどうかも、真田には分からないのだった。あまりにも静寂が空気を支配しているから。もしかしたら自分の耳が聞こえないだけで、自らが発した声すら拾うことが出来なかっただけで、実際この声帯を震わせ、それは一つの音として意味を成していたかもしれない。それを知る術が、真田にはないというだけで。
見送る背中は、三つあった。大中小と並んだ影だ。一番始めに遠くへ走って行ってしまったのは、一番小さなそれだった。自分と同じ銀色の髪を持った少女。血を分けた唯一無二の肉親であった少女は、彼が強くなりたいと願う最初の理由となった、妹だ。あの夜、煙にまかれ、そしてごうごうと燃え盛る炎に呑み込まれた妹。記憶に残る幼い姿のまま、永遠に閉ざされてしまった時間を恨むことすら知らないまま。あっという間に見えなくなっていく背中を見つめて、真田はただ立ち尽くしている。
そして次に立ち去ったのは、一番大きな背中だった。彼の名は荒垣という、真田の幼なじみである。あまりにも優しいその人は、過去の罪に囚われて行ってしまった。傷つくことは構わないくせに、傷つけることには堪えられない。彼は真田の兄弟のような存在で、けれど、あの気だるさを装った気配の片鱗さえももう、残されてはいないのだった。迷うことも、振り返ることすらせずに、妹が去っていった方向へと彼もまた歩いていく。待て、シンジ。お前まで、行ってしまうのか。美紀だけでなく、お前までもが。
どうすることも出来ずに、結局真田は最後に残った背中をじっと見つめた。ああ、けれど果たして、この背中は誰のものだったろう。ぼんやりと霞がかっているその背中を見つめて、真田は声を張り上げた。誰でもいいとは言わないが、行かないでくれ。俺を置いて行かないでくれ。けれど、やっぱり辺りはしんと静まり返っていて、自分の声が言葉になっているのかも、真田には分からない。じわり、そうして胸の奥底から滲んだその感情は、果たしてなんという名前だろう。焦燥。胸がムカつくように熱い。真田は呼吸も忘れて、その背が去っていかないことをただ願った。動くことが叶わない今は、手を引き寄せることも出来ない。繋ぎ止めることが、いつも真田には出来ない。
「さなだせんぱい」
ゆっくりとその背中が振り向く。真田は息をゆっくりと吐き出した。ああ、失うことへの恐怖がこんなにも胸に満ちている。そしてそれが真田の中から溢れることはない。溢れずに、ただ満ちている。だから彼は、何時まで経っても息苦しいのだ。あの日からずっとずっと、溺れている。
(俺は、この声を――)
*
意識の覚醒はあまりにも唐突で、もたらされた目覚めたは奇妙なほどすっきりとしていた。なんの夢を見ていたんだ。真田はゆっくりと起き上がる。辺りを見渡して、真田は漸く自身がラウンジのソファでうたた寝をしていたことを思い出した。随分と深く眠っていたのか、タルタロスのせいで崩れ気味だったはずの体調が良くなっている。頭もすっきりとしているので、これなら夕方にはロードワークに出られそうだ。真田はソファに座り直して、ぐっと身体を伸ばした。戦線に復帰してから、まだ日は浅い。これからきっと、もっと強くなれる。もっともっと、この拳を鍛え上げることができる。そうしたらきっと、もう何一つ失わずに生きていけるような気がしていた。何者にも害されない、何者にも奪い取られない何かを得られるような、そんな気が。
"さなだせんぱい"
ふいに、七つの音。耳の奥に残る声を思い起こして、真田は動きを止める。誰の声だろうか。自分はその声を紛れもなく知っているはずなのに。もやりと心を曇らせたその声の主は、真田の胸にほんの僅かな痛みを残した。
(この声を、ずっと聞いていたい、なんて)
- end -
20110723
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