遠回りして帰ろうか


半透明な世界

 登校時間を合わせて一緒に学校へ行く相手はいない。
 ゆかりは朝練があることが多いし、順平は遅刻ギリギリ。先輩二人とはそんな約束を交わすような特別な間柄ではないからだ。正直にいえば、朝の時間は貴重なものである。タルタロスの疲れが抜けきらずに辛い日も多いというのに、そんな忙しい時間をわざわざ誰かに合わせて行動するのは面倒以外の何物でもないとは思う。ぼんやりと音楽を聴きながらリフレッシュして気持ちを明るい方向へ導くその時間は、にとって必要不可欠に近いものだ。

 その日は疲れているはずなのにも関わらず、いつも起きる時間よりも早く目が覚めた。ぐっと伸びをして体をほぐす。いい感じのコンディションだ。今日のタルタロスはきっと上手くやれる。そんな確信が生まれてくる。着替えを済ませて換気のために窓を開けると、気持ちのいい風が室内を通り抜けた。
 折角早く起きることが出来たなら、テニス部員らしく朝練のひとつでもしようか。気まぐれにそんなことを思って、手早く準備を済ませる。キッチンの冷蔵庫に牛乳、昨日買ったパンがあるので、それを適当に胃袋に詰め込むと、歯を磨きに一度部屋へ。よし、と最終確認を終えると、は軽い足取りで寮の扉を開けた。まだ早い時間だから、この扉も施錠して行かなければならない。鞄から寮の玄関扉の合鍵を取り出して、古く、しかし頑丈そうな金属へ差し込んだ。
 商店街を抜けて駅へ向かうというのがいつもの登校ルートだ。本の虫の前では、いつものように老夫婦が中睦まじく箒で道を掃いている。彼らはとても早起きだ。そして、皆が気持ちよく過ごせるように、この駅へと続く道の清掃を怠らない。例え気付きもされなかったとしても、ゴミを目の前で落とされたとしても、二人がそれを無意味だと放り出すことはないのだろう。日常の端々に当たり前に存在している、誰かの心遣い。そしてその状況は、自分達に似ているとはふと思った。
 誰からも感謝されることはない。そもそも、誰にも気付かれない。それでも私達は、毎夜戦い続けている。けれど、雑踏に紛れて飲み込まれてしまう私達の砕いた心は、確かに社会へ反映されているのだ。きっと私達は、その上に立つことでしか生きられない。は物言いたげな視線を思い出して、憂鬱になった。もしかしたら自分は、その視線の主を踏み台にしているのではないだろうか。そして、何を思ってその人がそうなったのか、は欠片ほども理解出来ていないのだろう。知らずに踏みにじっているのだとしたら、自分は果たして何をするべきか。どうしたら応えられるのか。それが分からない。分からないことが、たまらなく苦しい。何のために戦っているのかすら本当は曖昧で。世界のために、だなんて大義名分は必要ないのだ。世界中の人のために動けるほど、正義感は強くない。
 は踵を返して、ムーンライトブリッジへ向けて走り出した。走って学校へ行こう。手にしていた定期入れを鞄に乱暴に突っ込みながら、足を止めることが出来なかった。朝日を受けて光る巨大なそれが近付く度に、大きな声を上げてしまいたいような衝動。息が切れて苦しい。橋の真ん中まで来て、は足を止めた。
 ここはこんなにも平和そうに見えるのに、どうして、世界は危機を迎えているのか。
 目に見えるもの全てが、透明な膜で覆われているかのようだ。夜な夜な化物が徘徊しているとは、誰も思うまい。いつもは綺麗だと感じるその景色がなんだか白々しく見えて、はどうしてか、世界から拒絶されているような気持ちになった。冷たい液体が肺を満たしていくようだ。走ったせいで火照った身体と対照的なその感覚になんともいえない気味の悪さを感じて、は再び走り出した。
 なんだか、悪い夢の中をさ迷っているような気がした。

- end -

2011005

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