だいじょうぶ、まだ、だいじょうぶだよ。
そんな言葉を、いつも、どんな時だって繰り返す。胸の前で固く手を握り締めて。これはいつだったか、両親が教えてくれた、魔法の言葉。それを教えてくれたから、小さな時、お母さんは魔法使いなんだって、そう思ってた。
「目が覚めた?」
はっと視界に飛び込んできたのは、暗い紫色の世界だった。うう、と掠れた声が喉から自然と溢れて、ぶつけたのだろうか、微かに痛む頭を持ち上げる。すると、そこでぱちり、自分を覗き込んでいる青い瞳と目が合った。
「え!?なんで」
驚きに後ずさったに、不思議な少年がにこりと微笑み掛ける。
「君の部屋の外で会うのは、初めてだね」
別に、そういう事が聞きたいんじゃあないのに。は、マイペースな少年に少しばかり呆れた。そして、周囲を見回して息を呑む。山岸風花と同じ方法でタルタロスに入れば、きっと同じ場所に辿り着くことが出来るだろうという真田の提案で、先程まで体育倉庫に居たはずだ。片手に武器を握り締めて、を真ん中に、真田と順平と三人、横一列に手を繋いで影時間を待っていた。にも関わらず、二人の姿が見当たらない。タルタロスも、底冷えするような緑に発光する床ではなく、全体的に紫を基調とした空間になっている。タルタロス内部はいくつもの階層に分かれているが、内装的には二層目。しかし美鶴の声がうまく届かないことから、きっと二層目の上層で、先日までの探索では閉ざされて入れなかったところだろう。シャドウもきっと強くなっている違いない。通信機に向かって、美鶴先輩聞こえますか、と数回呼びかけてみたが、どうやら繋がっていないようだ。敵の位置が辛うじて把握出来る事だけが救いだろう。オレンジ色の点がマップの上を移動している。今この近くに、少なくともシャドウは二体いるらしい。見つからないように声を潜め、少年へ向かい合った。
「他の二人はどこ?」
不安に表情を強張らせたに、少年は少し困ったように、諭すように告げた。
「大丈夫。すぐに会えるよ」
この子には何故か、不思議な安心感があるな、とは思った。大丈夫。その言葉を、反芻すること自体は珍しくないが、こんなに切迫した気持ちになる事は、そうそうあって良いものじゃない。そうだ、落ち着かなくては。幸いなことに自分は沢山の属性の魔法を使うことが出来るのだし、サポートが無くとも敵の弱点を突くことは難しくない。心配なのは、真田と順平ではないか。二人とも、どこにいるんだろう。落ち着いて、まずは合流を最優先に、戦闘はなるべく避ける事を考えて進まなくては。ごくりと喉を鳴らして、とんとん、とつま先で床を蹴る。最早、癖のようなものだ。
「ねえ、君も一緒に行こう。此処は私の部屋と違って、危ないよ。聞きたいこともあるの」
「うん、僕はいつも君と一緒だよ?ふふ、でも今は、ゆっくり話していられない。今夜君にやってくる試練は、どうも一つじゃないみたいだ」
が差し出した手を取ることなく、少年はふと微笑みを表情から消した。どきり、何か予感のようなものが胸を過ぎる。どういう意味だろう。考える間もなく、少年の体が薄暗い景色に溶け始めた。毎度思うが、一体この子はどうなっているのだろうか。寮の中だけでなく、タルタロス内部でも消えることが出来るなんて。触れることが出来るから、幽霊の類ではないだろう。けれどそれなら、なんなのか。説明のしようもない。
「とにかく、急いだ方がいいよ…"彼女"が待ってる。今の君たちには、必要な人だ。じゃ、また会えるといいね」
「ちょ、待って!」
伸ばした手が空を切る。試練ってなんのことなの、彼女って、誰のこと?はぎゅと薙刀を握りなおして呟いた。そして、一人になって改めて周囲を見回してみる。壁にある突起を正面から見ると、目を瞑った人間顔のようだった。あまりの気持ち悪さに絶句していると、ノイズの酷い通信が途切れ途切れに入ってきた。美鶴の普段よりも少し切羽詰まったような声音が、緊急事態なのだという事を告げている。通信はすぐに途絶えてしまい、押し寄せる不安が冷や汗となって背筋を凍らせた。
「大丈夫。大丈夫」
微かに手が震えている。落ち着いて、深呼吸を三回。曲がり角から先を確認して、シャドウがいないことを確かめる。なんだか、こんなゲームが昔あったな、とはふと思った。敵に見つからないように隠れながら目的地へと進んでいく。その過程で起こした些細な行動が、目的を同じくした、けれど全く知らない人達の助けになったり、運命をも左右する重大な事に繋がっていく。
――この世界には、多くの時間軸が存在していると云われています。
テオドアの声が蘇る。よくある話だ。その時、その瞬間、自分が選んだ選択肢が一つ違えば、それだけ平行世界が生まれる。それはたとえば、食べる食べない。話す話さない。そんな日常に潜む些細な行動にすら付き纏う。ならば今この瞬間にもきっと、違う自分がどこかに存在しているのだろう。
運命とは川の流れのようなものだという喩をよく耳にするが、先ほど思い出したゲームは、まさにそれを体現したようなものだ。主人公たちの行動一つ一つは本当に大したことのない、それこそ流れに翻弄される小石のようなものだが、それらが重なることでいくつもの流れを変えることが出来る。幾筋もの流れを生み出すことだって出来る。本流まで遡れば、より大きな変化を生むことが出来るだろう。それこそ前提を覆してしまう位。
「だいじょうぶ」
この魂の記憶に刻まれた、別の世界、別の時間を生きる"私"に、私は何が出来るだろうか。小石の一つにでも、なることが出来たなら。きっと最悪の事態をいくつも免れていけるのに。今度は私が、魔法使いになる番なのかもしれないな、と何故かそんなことを考えながら、はもう一度、その言葉を呟いた。
- end -
20120813
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